人それぞれの信仰体験
人間性の研究
人間性の研究
一九〇一年から〇二年にかけてエディンバラ大学で講じられた
自然のままの宗教に関するギフォード講義
ウィリアム・ジェームス
子としての感謝と愛をこめて
E・P・G〔*〕に
〔Elizabeth Putnam Gibbens=ウィリアム・ジェームスの義母〕
まえがき〔Preface〕
わたしがエディンバラ大学における自然のままの宗教に関するギフォード講義〔*〕の講師に指名されるという栄誉に浴すということがなかったなら、本書が執筆されることはなかったはずである。かくしてわたしが担当することになった、それぞれ一〇回の講義からなる二課程それぞれの主題についてあれこれ考えた結果、第一課程は「人間の宗教欲求」に関する叙述的なもの、第二課程は「哲学による宗教欲求の充足」に関する形而上学的なものとするのが適当であろうとわたしには思われた。しかし、執筆を始めてみると、心理学的なことがらが思いのほか大きく膨れあがってしまい、その結果、二番目のテーマは永久に先送りとなってしまい、いまや、人間の宗教気質に関する叙述が二〇回の講義を占めてしまった。第二〇講において、わたしはわたし自身の哲学的な結論を述べるというより、示唆しておいたので、読者がただちにこれを知りたいと思われるなら、本書五〇一から〇九頁、それに「あとがき」をお読みになるとよい。今後いつの日か、同じテーマをもっと明確な形で論じることができるようになることをわたしは願っている。
〔スコットランドの法律家アダム・ギフォード〔Adam Gifford(1820-87)〕の遺志と基金により、スコットランドの諸大学が合同で主宰している自然神学についての連続講座〕
個別事例に幅広く親しんだほうが、どれほど深遠であっても抽象的である公式をものにするよりも賢くなれるというわたしの信念にもとづいて、わたしは講義に具体的な実例を数多く盛りこみ、それを宗教的な気質の極端な表現のなかから選んだ。そのため、読者のみなさんのなかには、半分もお読にならないうちに、わたしが講義の主題を戯画化していると思われる向きもいらっしゃるかもしれない。しかし、我慢して最後までお読みになれば、このような好ましくないという印象は消え失せるであろう。なぜなら、最後のところで宗教衝動をほかの良識的な原則と結合させるので、それが誇張を矯正するのに役立つからであり、読者はそれぞれ思いのままに穏当な結論を引き出すこともできるようになるだろう。
講義執筆にあたり、スタンフォード大学のエドウィン・D・スターバック〔Edwin D. Starbuck(1866-1947)〕には手稿資料の膨大なコレクションをわたしに譲渡してくださり、お会いしたことはないが、友人であることは確かなイースト・ノースフィールド〔East Northfield:米マサチューセッツ州〕在住のヘンリー・W・ランキン〔Henry W. Rankin〕には貴重な資料をいただき、ジュネーブのシオドア・フルーノア〔Theodore Flournoy(1854-1920)心理学者〕、オックスフォードのカニング・シラー〔Canning Schiller〕、わたしの同僚、ベンジャミン・ランド〔Benjamin Rand(1827-83)医学者〕には記録文書をいただき、わたしの同僚、ディキンソン・S・ミラー〔Dickinson S. Miller〕、友人たち、ニューヨークのトーマス・レン・ウォード〔Thomas Wren Ward〕、近ごろクロクフ〔Cracowポーランド〕にご在住のヴィンセントリ・ルトスラウスキ〔Wincenty Lutosławski(1863-1954)哲学者〕は、重要な提案と助言をお寄せくださったので、ここに感謝を申しあげたい。最後に、故トーマス・デヴィットソン〔Thomas Davidson(1840-1900)スコットランド出身の哲学者〕には、キーン渓谷〔Keene Valley〕を望むグレンモア〔Glenmoreニューヨーク州〕において重ねた会話と蔵書を使わせていただいたことについて、わたしの受けた恩義は筆舌につくしがたい。
ハーヴァード大学にて
一九〇二年三月
目次〔CONTENTS〕
まえがき
はじめに: 講座のテーマは人類学ではなく、個人文書を対象とする――事実問題と価値問題――事実として、宗教者は神経症患者であることが多い――宗教性欲起源説に反論する――こころのあらゆる状態は、神経系に条件づけられている――こころの状態は、起源ではなく、その果実の価値によって検証されなければならない――価値の三基準、起源は基準として無価値――優秀な知性に精神病的気質がともなう場合の利点――とりわけ信仰生活にとっての利点
宗教の単純な定義は無益――単一特定の「宗教感情」はありえない――制度的宗教と私的宗教――この講座では私的なものだけを扱う――この講座の目的にかなった宗教の定義――「神聖」という用語の定義――神聖なる存在とは、厳粛な反応を促すもの――明確な定義を提示するのは不可能――できるだけ極端な事例の研究が必要――宇宙を受け入れる二つの方法――宗教は哲学よりも熱烈――宗教の性格は厳粛な感情への熱望――不幸を克服する宗教の能力――そのような能力の生物学的観点からの必要性
知覚対象 VS 抽象概念――抽象概念が信念におよぼす影響力――カントの神学的純粋理性――わたしたちは特殊感覚に与えられたもの以外に現実感をもつ――「現存感」の例――実在しないものの感触――神聖なるものが現存する感覚:その例――神秘体験:その例――その他の、神が現存する感覚の事例――理性にもとづかない体験の説得力――信念確立にさいする合理主義の劣等性――個々人の宗教的態度において、熱狂または厳粛さのどちらかが肝要
幸福が人間の主な関心事――“一度生まれ”人格と“二度生まれ”人格――ウォルト・ホイットマン――ギリシャ人の感覚の混じりあった性質――意図による健全なる精神――健全なる精神の合理性――リベラルなキリスト教がそれを示す――通俗科学が鼓舞する楽観主義――“精神療法”運動――その信条――事例――その悪に対する教義――そのルター派神学との類似――リラクセーションによる救済――その手法:暗示――瞑想――“黙想”――検証――宇宙に対するありうる適応の枠組みの多様性――付録:二件の精神療法事例
健全な精神と悔い改め――健全な精神の哲学の基本的な多元論――病んだ精神状態、その二つのレベル――人それぞれに異なる苦痛閾――自然のものごとの不確かさ――すべての人生の失敗、またはむなしい成功――あらゆる純粋自然主義の悲観論――古代ギリシャ・ローマ世界観の絶望――病的な不幸――「アンヘドニア」〔快感脱失症〕――ぐちっぽい欝――活力は純然たる贈り物――活力を失えば、物質世界の外観は変わる――トルストイ――バニヤン――アリーン――彼らの事例の救済には超自然的な宗教が必要――健全な精神状態と病的状態との反目――悪の問題は避けられない
異種混交人格――人格は段階的に統合を達成する――分裂した自我の例――統合の達成は宗教的である必要がない――“逆回心”事例――その他の事例――段階的および突発的な統合――トルストイの回復――バニヤンの回復
スティーヴン・H・ブラッドリーの事例――人格変革の心理学――情緒の興奮は人格エネルギーの新たな中枢を生みだす――その回路の説明――スターバック、回心を通常の倫理的成熟に例える――リューバの考え――回心に縁のない人びと――二種類の回心――誘因の潜在意識的な成熟――自己放棄――その宗教史における重要性――事例
突発的な回心の事例――突発性が必須条件なのか?――否、回心は心理学的特異性によって決まる――実証された超周縁的、または潜在的意識――「自動作用」――瞬時の回心は当人の活動的な潜在意識自我の保持に原因があるようだ――回心の価値はその経過にあるのではなく、果実にある――瞬時の回心の場合に果実が優れているということはない――コー教授の見解――結果としての聖別――当講座の心理学的説明は神の直接存在を排除しない――ハイアーパワーによる支配の感じ――情緒的な「信仰状態」の知的信念に対する関係――リューバによる引用――信仰状態の特徴=真実の感覚、世界が改まる――感覚の自動作用と運動器官の自動作用――回心の永続性
第一一・一二・一三講 聖性について
第一四・一五講 聖性の価値
第一六・一七講 神秘主義
第一八講 宗教哲学
第一九講 その他の特性
第二〇講 結論
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原書は著作権の保護期間が満了しているため、パブリック・ドメイン
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