第2講
講義テーマの範囲
CIRCUMSCRIPTION OF THE TOPIC
宗教の単純な定義は無益――単一特定の「宗教感情」はありえない――制度的宗教と私的宗教――この講座では私的なものだけを扱う――この講座の目的にかなった宗教の定義――「神聖」という用語の定義――神聖なる存在とは、厳粛な反応を促すもの――明確な定義を提示するのは不可能――できるだけ極端な事例の研究が必要――宇宙を受け入れる二つの方法――宗教は哲学よりも熱烈――宗教の性格は厳粛な感情への熱望――不幸を克服する宗教の能力――そのような能力の生物学的観点からの必要性
宗教哲学の本は、たいがい宗教の本質を構成するものの正確な定義から説き起こそうとします。これら定義らしきものは、たぶん後ほど、この講座でいくつか示されることになるでしょうし、わたしとしては、今回みなさんにこれを並べてみせて学者風を吹かすようなことはしないつもりです。さて、宗教がこのように数多くあり、たがいに非常に違っているという事実そのものが、「宗教」ということばが単一の原理や本質を表すものではありえず、むしろ集合的な名辞であることをはっきり示しています。理論好きはいつも素材を単純化しすぎるきらいがあります。これが、哲学と宗教の両方にはびこってきた例の絶対主義や一方的な教条主義すべての根源です。わたしたちとしては、この主題に関して一方的な見方に陥らずに、むしろ自由な立場から、たったひとつの本質は見つからず、宗教にとって等しく重要な多くの性格が見つかるかもしれないと最初に認めることにしましょう。例えば、仮に「政府」の本質を問うなら、ある人は権限であると説き、ある人は服従、またある人は警察、別の人たちはそれぞれ軍隊、議会、法体系と答えるでしょう。だが、これらすべてのどれひとつが欠けても、しっかりした政府は存在できませんので、ある時はあるものが重要であり、別の時は別のものが重要であるというのが、常に正しいのでしょう。政府というものを一番よく知る人は、政府の本質を決める定義などにはいささかもこだわらないはずです。その人は、これらの個別項目を順繰りにじっくり知って楽しみ、それらを単一のものとして統合する抽象的な概念を理解させるものというより、誤解させるものとみなすでしょう。では、どうして宗教もまた同じように複合的な概念であってはならないのでしょうか?[9]
[9] 本文執筆後に公表されたthe Monist for January, 1901所収のリューバ教授〔James Henry Leuba (1867-1946)米国の宗教心理学者〕の記事に、これらすべての宗教定義の無益さに関する、幅広く、賞賛に値する論評があり、わたしの知るかぎりで最上のものとして、読者諸氏にこれを参照なさることをお勧めしたい。
とてもたくさんの本で、あたかも心的実体の一種であるかのように言及されている「宗教心」についても考えてみましょう。
宗教に関する心理学や哲学において、著者らは、それがまさしくどのような実体であるのか特定しようと企てています。ある人は、それを依存心の同類であるとします。ある人は恐怖から派生したものとします。別の人たちは性生活に結びつけます。それでも、ほかの人たちは無限の感覚と同一視します。そのほかいろいろです。そのようにさまざまに異なった理解の方法があれば、そのこと自体のせいで、それが単一の特定のものであるだろうかという疑いが生じないはずがありません。「宗教心」ということばを、信仰対象のそれぞれが次つぎと呼び起こす多くの感情をひっくるめた集合名詞とみなせば、たぶんそれは心理学的な格別な性格をなにも含んでいない、とたちどころに了解することでしょう。宗教的な恐怖、宗教的な愛、宗教的な畏怖、宗教的な喜びがあり、そのほかにもさまざまあります。しかし、宗教的な愛とは、信仰対象に向けられた愛という人間の自然な情動であるに過ぎません。宗教的な恐怖とは、霊的交渉にかかわる普通の恐怖に過ぎず、いってみれば、神罰がくだるという思いだけが引き起こすような、人間の平凡な胸騒ぎなのです。宗教的な畏怖とは、黄昏どきの森、あるいは山間の渓谷で感じるのと同じ身震い感覚です。ただこの場合には、超自然的なつながりがあると思ったときに、わが身に起こるのです。宗教的な人の生活でうごめくさまざまな感情すべても同じことです。宗教的な感情は、感覚プラス特定の対象が作り出す具体的な精神状態ですが、もちろんほかの具体的な情動から判別しうる心的な実体です。しかし、すべての宗教体験に例外なく現れるような、識別可能で基本的な心的性向として個別に存在する「宗教感情」を想定するだけの根拠はありません。
このように、基本的な宗教感情はひとつもなく、信仰の対象が引き起こす感情の汎用倉庫があるだけのようですので、ひょっとすると単一の明確で基本的な信仰対象もなく、単一の明確で基本的な宗教行為もないということにもなるのかもしれません。
宗教の領域はこのように幅広いので、わたしが全体を網羅して扱うようなふりをしようとしても、それは明らかに不可能なことです。わたしの講義をこの主題の一断片に絞らなければなりません。また、宗教の本質について抽象的な定義を掲げ、さらに進んで、その定義をくまなく擁護するのは愚の骨頂ですが、だからといって、宗教はなにに宿るかについて、当講座の目的のためにわたし自身の限られた見解を取り上げたり、ことばの多様な意味のなかから、みなさんに格別に興味をもってもらいたいと思うひとつの意味を選び、わたしが「宗教」というとき、その意味を指すと勝手に宣言したりするのを妨げるものでもありません。実にこれが、わたしのやるべきことであり、ここでわたしが選ぶ範囲を予備的に定めておきます。
その選別を容易にするためのひとつの方法は、主題のうち、触れないでおく側面はどれかをいっておくことです。まず、宗教の領域を二分する、ひとつの重要な仕切りが目に付きます。仕切りの一方に制度的宗教があり、他方に私的宗教があります。P・サバティエ氏〔Paul Sabatier(1858-1928)フランスの聖職者。アシッジの聖フランチェスコの伝記の作者〕がいっているように、宗教の一方の枝は主として神を、他方の枝は主として人間を視野に収めています。制度という枝の宗教では、礼拝と供犠、神の思し召しに働きかける手順、神学と儀式と教会組織とが必須要素になっています。これに視野を絞るとすれば、宗教を外面的技術、つまり神がみの好意をいただくための技術と定義しなければならないでしょう。個人という枝の宗教で興味の中心をなすのは、人間自身の内面的な志向であり、人間の良心、功罪、無力、不完全さです。失うにしろ得るにしろ、やはり神の好意が話しの要点にあり、ここに神学がなくてはならない役割を担っているのですが、この類の宗教が駆り立てる行為は個人的なものであって、儀式的なものでなく、個人が独力でことをなすのであり、教会組織は、聖職者や礼典、そのほかの介在物とともにことごとく裏方の立場に退きます。人間とその造り主とのあいだで、心から心へ、魂から魂へ、関係性が直接的に行き交うのです。
さて、この連続講義では、制度という枝を完全に無視すること、教会組織についてなにもいわないこと、神々に関する体系的な神学や思想については可能なかぎり考えないこと、できるかぎり純粋・単純に個人の宗教に限定することをわたしは提案します。みなさんのなかには、これほど装いをはがれて考察される個人宗教は、一般名を冠するには、疑いなくあまりにも不完全であると思われる向きもおられることでしょう。みなさんはこうおっしゃるでしょう――「それは宗教の一部分ではあるが、形をなさない兆しであるにすぎない。それ自体に名をつけるとすれば、人間の宗教というより、人間の良心、あるいは道徳と呼ぶほうがふさわしい。『宗教』の名は、感情・思想・制度の完全に組織化された体制、つまり教会のために保留されているべきであり、いわゆる個人宗教はその断片的な一要素にすぎない」
けれど、そういってしまえば、定義の問題が名称にまつわる論争になりやすいことを率直に示してしまうだけのことです。そのような論争を長引かせるよりも、わたしとしては、これから扱おうと提案する個人宗教にどのような名をつけるにしても、それを受け容れるつもりです。みなさんご自身がお好みなら、良心と呼んでも、あるいは道徳と呼んでも――いずれにしても、同じようにわたしたちの研究に値しますので――差し支えありません。わたし自身としては、個人宗教には、純粋・単純な道徳が含まない要素がいくつか含まれていることがわかるようになると思いますし、ほどなくそういう要素を指摘するつもりです。だから、わたしは「宗教」ということばを採用しつづけるつもりです。また、当講座全体の最終講義で、神学および教会主義を取り上げ、個人宗教とそれらとの関係について、なにかお話しするつもりです。
個人宗教は、少なくともある意味で、神学や教会主義よりも基本的であることをおのずから明かすことでしょう。教会が確立されると、伝統に乗っかった二番煎じとして存続します。だが、それぞれの教会の開祖らは、聖なる存在との直接的・個人的な交わりという事実を拠りどころとして、独自に力を得ていました。キリスト、仏陀、マホメットといった超人的な開祖たちだけでなく、キリスト教各教派のあらゆる創始者らもこの例に漏れません――だから、個人宗教は、不完全であると変わらずに評価する向きにとってさえ、やはり根源的なものと思えるはずです。
確かに、宗教のうちには、道徳感覚において個人の信心よりも年代的に古い別のものがあります。呪物崇拝や呪術は、内面的な敬神よりも歴史的に先立っていたようです――少なくともわたしたちの内面的な敬神の記録はそれほど古くからのものではありません。また、呪物崇拝や呪術を宗教の一段階とするなら、内面的な意味をもつ個人宗教と、それが基礎となる真に霊的な教会主義とは、二番手、あるいはひょっとすると三番手の現象になります。しかし、多くの人類学者――例えば、ジェヴォンズやフレーザー〔Sir James George Frazer(1854-1941)社会人類学者。主著『金枝篇』〕――が「宗教」と「呪術」とを明確に対立させているのは別にしても、呪術や呪物崇拝、それに低級な迷信にいたる思考方式の全体は、原始宗教と呼ばれるのと同様、原始科学と呼ばれても間違いないものです。かくして、論点はまたもやことばの問題になり、こうした思考や感覚の初期段階のすべてにまつわるわたしたちの知識は、いずれにしろ非常に憶測的で不完全であり、これ以上、議論する価値はありません。
したがって、手前勝手ながら、いまわたしがみなさんに理解していただくようにお願いする形の宗教は、なんであれ聖なる存在と考えるものと自己が関係を結んでいると理解する場合に限った、孤独のうちにある個人の感覚、行為、体験を意味することになります。その関係が、倫理的、身体的、あるいは儀式的なもののいずれかになりますので、わたしたちなりに理解する意味の宗教から、神学や哲学、それに教会組織が二次的に育ちます。しかしながら、この講義では、すでに述べておいたように、直接的な個人体験がわたしたちの時間を占めつくしてしまいますので、神学や教会について考察することはまったくできないでしょう。
このように恣意的にわたしたちの分野を定義することにより、論争になる問題の多くを避けることになります。それでも、「聖なる」ということばを、あまりにも狭い意味で定義するなら、やはり論争の余地が生じます。世界がたいがい宗教と呼び、それでも積極的に神を想定していない思想体系があります。仏教がその例です。通俗的には、もちろん仏陀その人が神の位置にいます。だが、厳密にいえば、仏教の体系は無神論です。現代の超越理想主義、たとえば、エマソン主義もまた、神を抽象的な想像力へと蒸発させているようです。具体的な(in concreto)神さまではなく、超人的人格ではなく、万物に内在する聖性、宇宙の基本的に霊的な構造が、超越崇拝の対象なのです。エマソン〔Ralph Waldo Emerson(1803-82)米国の思想家・哲学者〕を有名にした一九三八年の神学校大学院講演では、このような単なる抽象的な法則に対する賛美の率直な表明がスキャンダルの的になりました。
講演者〔エマソン〕は次のように語りました――
「これらの法則はみずからを遂行します。それらは、時間の外、空間の外にあり、環境に従属しません。したがって、人間の魂には義があり、その報いは即座・永遠に果たされます。善行をなす者は、即座に高められます。卑しい行いをなす者は、その行いそのものによって卑しめられます。不純を退けるものは、それによって純潔を身につけます。人間が心において正しいならば、その限りにおいて、その人は神なのです。神の平安、神の不滅、神の威厳が、義の人に宿ります。人が偽り、欺くならば、その人はみずからを欺き、その人自身の実存との縁を失います。人格は常に知られます。盗みは富を与えません。施しは貧しくしません。殺人は石の壁から漏れる声で露見します。最小限の偽り――例えば、虚栄心の痕跡、よい印象、好ましい外観を装うためのあらゆる企て――が混じるだけで、即座に効果を損ないます。だが、真実を語ると、生あるものも理性なきものも、森羅万象が証をなし、その場の地下にある草の根さえもが、目覚め動いて、証人となるようです。なぜなら、海洋が、洗う岸ごとに異なった名で呼ばれるように、異なった働きに応じて、愛、義、節度といった異なった名で呼ばれる同じ霊から、森羅万象が現れるのです。これらを目的から外れてさまよう限り、人間はみずから力を失い、支援を受けられなくなります。人の存在は萎縮します……人は、小さく、小さく、塵、点になって、果てに絶対悪が絶対死となります。この法則を理解すると、宗教感情と呼ぶ情緒が心のなかに目覚め、これがわたしたちの最高の幸福をもたらします。すばらしきは、魅了し、支配する、その力です。それは山の空気です。それは世界の腐敗防止作用です。それは空や丘を荘厳にし、星々の静寂の歌がそれです。それは人間の無上の幸福です。それは人を無限にします。人が『わたしはすべき』というとき、愛が人を諭すとき、人が高みより促され、よき偉大な行いを選ぶとき、そのとき、至高の知恵から深い音楽が人の魂へと流れます。そのとき、人は礼拝し、礼拝によって拡大されることができます。なぜなら、人はこの感情の裏を知ることが断じてないからです。この感情のあらゆる表現は、その純度に比例して、神聖であり永遠です。(その表現は)ほかのどのような作品よりもわたしたちを動かします。古の時代の文章は、この敬虔を奔流のごとく語り、いまでも新鮮であり、香味をたたえています。そして、イエスの人類に対する無類の印象は、その名がこの世界の歴史に書きこまれたというより、鋤きこまれていて、この点滴薬の霊妙な効能を証しています」[10]
[10] Miscellanies, 1868, p. 120, 要約。
これがエマソン教です。宇宙には、秩序の神聖な魂が備わり、この魂が徳性であり、これがまた人間の魂のうちに備わる魂でもあるのです。しかし、この宇宙の魂が、目の輝きや皮膚の柔軟さのような単なる特質なのかどうか、あるいは、目の視覚や皮膚の触覚のような自己意識的な生命なのかどうか――このような決定は、エマソンの書物では紛れない形で示されてはいません。これらのことがらの境界でふらついていて、哲学上の必要というより文芸上の都合で、ときには一方に、ときには他方に傾くのです。それでも、それがなんであれ、それは生き生きしています。それは、まるで神であるかのようにして、あらゆる理想的な利益を擁護し、世界の均衡を正しく保つものとして信頼できるのです。最期のときにいたるまで、エマソンはこの信仰に声を与えましたが、次のようなそのことばは、文学において最高なまでにみごとです――「人を愛し、人に奉仕するなら、隠れても計らっても、報酬を免れるすべはありません。聖なる義が乱されるとき、秘かな報復が義の水準を回復します。この天秤を傾けるのは不可能です。世界の暴君や領主や独占主義者らの全員が、天秤の梃を持ち上げんものと肩を添えても、無駄です。重々しい赤道は永遠にその運命に定められ、人間や塵も、星も太陽も、その例に漏れず、そうでなければ、反動によって砕け散ります」[11]
[11] Lectures and Biographical Sketches, 1868, p. 186.
さて、このような信念の表明のもとに潜んでいて、著述家を発言に駆り立てる内的体験が、宗教体験と呼ぶにはまったく値しないというのは、あまりにもばかげた話しでしょう。一方のエマソン流肯定論と、他方の仏教的厭世論とが個人になす訴えの類と、個人が生きるうえでなす、それへの反応の類とは、事実上、最良のキリスト教の訴えと反応とは区別できないものであり、多くの面でまったく同じなのです。したがって、わたしたちとしては、経験主義の観点から、これらの無神論または準無神論の立場の信念を「宗教的」と呼ばねばなりませんし、それに伴い、宗教に関するわたしたちの定義において、「本人が神聖と考えるもの」との個人の関係を語るとき、「神聖」という語を、具体的な神格のあるなしにかかわらず、神のような対象を示すものとして、非常に広く解釈しなければなりません。
しかし、宗教の歴史上、数多の神がみが栄えたのですが、それぞれの属性はそうとう相矛盾していますので、「神のような」という語は、ゆくえ定まらない一般的な性質のものとして扱うなら、きわめてあやふやになります。では、関係することによってわたしたちの性格を宗教的な人間と決定する――具体的な神に顕現するか否かにかかわらず――あの神のような特質とは、どのようなものなのか? 先に進む前に、この設問に対するなんらかの解答を求めると、わたしたちに報いがあるはずです。
ひとつには、神がみは、存在のありかたと力において第一のものと考えられています。神がみは森羅万象を覆い、包みこむものであり、神がみから逃れるすべはありません。神がみに関連するものは、真実のありかたにおける最初にして最後のことばなのです。だから、最も原初的・包摂的で、深い真実である存在は、この伝でいえば、なんであれ神のようなものとして扱われるでしょうし、したがって、ある人の信仰は、その人が原初的な真実と考える存在に向けて、どのような態度をとるにしても、その態度と同一視しうるでしょう。
このような定義は、ある意味で弁護しうるものであるはずです。なんであれ宗教というものが、生に対する人間の総体的な反応であるとするならば、生に対するいかなる総体的な反応も宗教であるといっては、なぜいけないのでしょうか? 総体的な反応は、ふとした反応とは異なっていますし、総体的な態度も、日常的な態度や専門家的な態度とは異なっています。これをものにするためには、存在の前景の向こう側に入りこみ、親しかったり疎ましかったりもし、不快だったり愉快だったりもし、好ましかったり嫌らしかったりもする、ある意味でだれもが持つ、永遠につづく現存としての不可知な全宇宙といった奇妙な感覚に到達しなければなりません。世界の現存といったこの感覚は、わたしたち一人ひとりの人間に固有な気質に働きかけますので、生全体に対して、人を奮起させたり無頓着にさせたりもし、敬虔にさせたり不敬にさせたりもし、鬱屈させたり歓喜させたりもします。そして、わたしたちの反応は、不随意で非言語的なもの、多くの場合、半ば意識されるだけのものですが、「わたしたちの住むこの宇宙の特性は、どのようなものか?」という問に対する最も完璧なわたしたちの答なのです。それこそは、最も明確な形でわたしたち一人ひとりの人間の世界の感じかたを現しています。では、このような反応がどのような特異な性格を持つものであっても、それを宗教と呼んで、なぜいけないのでしょう? このような反応の一部は、「宗教」という語のある意味に照らせば、非宗教であるとしても、それでも、宗教生活の全般的な範囲内に属するものであり、だから、これもひっくるめて宗教反応に分類すべきなのです。わたしの同僚が、洗練された無神論者の気概を明言していた学生を評して、「彼は神の不在を信仰し、崇めている」と申しました。また、キリスト教の教義に対する並外れて熱烈な批判派の多くが、心理学的によく考えてみると、宗教的熱意となんら変わらない気質を示してきたのです。
ですが、「宗教」という語をこれほどまでに拡大解釈して用いてしまいますと、論理的根拠のうえでは弁護の余地があるとしても不都合が生じるはずです。生全体に向き合うにしても、軽薄で、冷笑するような態度というものがあります。一部の人たちにとって、これが最終的で一貫した態度なのです。偏見のない批判哲学の観点からみて、あるいはこれも完璧に合理的な生の見かたであるかもしれませんが、このような態度を宗教と呼べば、ことばの正しい用法をゆがめることになるでしょう。たとえば、ヴォルテール〔Voltaire(1694-1778)フランスの啓蒙主義哲学者〕は、七三歳のとき、友人にあてて次のように書きました。
「わたし自身としては、なるほど弱いけれど、最期の瞬間まで戦いつづけ、槍で百回突かれたら、二百回突き返して笑う。わたしの戸口近くジュネーヴの街がつまらない争いで燃えあがるのをみて、また笑う。ありがたや、例のとおり時に世界が悲劇めいても、わたしはお笑い劇として見物しておれる。一日の終わりにさえ、すべてが出揃い、すべての日が終わるときでさえ、すべてがさらにもっと多く出揃う」
このような、お達者な老人にみる、逞しい軍鶏のような闘争心には賞賛を惜しみませんが、これを信仰心と呼ぶのはおかしいでしょう。それでも、さしあたり、これが生の全体に対するヴォルテールの反応なのです。Je me’n ficheとは、わが英語の絶叫「勝手にしやがれ」に相当する下品なフランス語です。最近、je me’n fichisme〔「勝手にしやがれ」主義〕という楽しい造語が発案され、生のあらゆることを生真面目に受け止めないとする意識的な決意を表すようになりました。この思潮にとって、「すべては空」というのが、あらゆる難局に効きめのある安心立命の呪文であり、あの絶妙な文学の天才ルナン〔*〕は、晩年の心地よい衰退の日々に、これをあだっぽくも罰当たりな形にし、「すべては空」の心境の優れた表現としてわたしたちに残しました。たとえば、次のような一節では――証拠に逆らおうとも、義務には固守しなければならない、とルナンはいうのですが――こう続けます――
〔Joseph Ernest Renan(1823- 92)フランスの宗教史家。近代合理主義にもとづくイエス・キリストの伝記『イエス伝』の著者〕
「世界が、気遣ってくれる神なんていない、おとぎ話の無言劇かもしれない可能性は多々ある。だから、どのような仮説を唱えようとも、わたしたちは完全に間違っているということがないように備えておかなければならない。目上の声には耳を傾けなければならないが、その場合でも、二番目の仮説が真であっても完全にだまされていたということになってはならない。じっさいに世界がまともでないなら、浅はかな人種とされるのは教義を説く人たちということになり、いま神学者らが不まじめと決めつける俗物は、真の賢者ということになる。
「だから、どちらの場合でも用意怠りなく(in utrumque paratus)。あらゆる事態に備えよ――たぶん、これが知恵なのだ。時に応じて、信頼に、懐疑に、皮肉にわが身を任せれば、少なくとも、ある瞬間には真実の側にいると確信できるかもしれない……上機嫌であれば、哲学者気分になれる。そういう気分は、自然に向かって、お前が俺たちを真剣に考えないからには、俺たちもお前を真剣に考えないといっているようである。わたしは、哲学を語るときはいつも微笑みを、といいたい。徳ある身は、永遠者のおかげではあるが、わたしたちには、この賛辞に加えて、個人的な仕返しとして、皮肉をいってやる権利がある。このようにして、わたしたちは冗談には冗談を返す正義の戦いに復帰する。わたしたちに仕掛けられたペテンを仕掛け返すのだ。『主よ、われらが騙されているなら、それは御身によってです!』という聖アウガスティヌス〔Aurelius Augustinus(354-430)神学者〕のことばは、いまでも素敵な一句であり、わたしたちの現代感覚によくかなっている。永遠者には、わたしたちが欺瞞を甘んじて受けるとしても、それを承知のうえで喜んで受けているのだということだけは知ってもらいたい。投資した徳の利子は前もって諦めているのに、徳を後生大事に数えあげるような茶番は演じたくはないのだ」[12]
[12] Feuilles detachees, pp. 394-398, 要約。
このような意識的に皮肉を利かせた先入見(parti pris)にまでも宗教の名がつけられるとすれば、「宗教」という語から連想されるものはすべて剥ぎとられなければならないでしょう。信仰にどのような格別な意味が他にあるにしても、一般人にとって、「信仰」は常に神妙な心持ちを表します。宇宙的なメッセージのこもる一句があるとすれば、それは「この宇宙の森羅万象は、見掛けはどうであれ、空ではない」というものでしょう。この一句がなにかを阻止することができるなら、世の人の理解する宗教は、ルナンのいうような与太話を抑えることができるでしょう。宗教は実直を愛し、軽薄を嫌います。宗教は、あらゆる無駄話しや小賢しい機智に「ご静粛に!」といいます。
だが宗教は、軽はずみな皮肉を敵視するとすれば、重苦しい不平不満も同じように敵視します。ある宗教では、世界はとても悲劇的な姿を見せますが、悲劇は浄罪するものと了解され、救いの道があるとされています。後ほどの講義で、宗教的な欝についてたっぷり学ぶことにしますが、マルクス・アウレリウス〔1〕のきわどいことばにあるとおり、受難者が生贄の豚のように横たわり、足を蹴り、叫びを上げるとき、日常のことばの意味では、欝は、宗教の名を冠する資格をすべて失います。ショーペンハウアー〔2〕やニーチェ〔3〕の気分は――それに、程度は低いにしても、われらが悲しみのカーライル〔4〕についても時に同じようなことをいう人もいるかもしれませんが――高貴さに誘う悲しみであることが多いですが、単に身勝手さを暴走させる不機嫌にすぎないこともほぼ同じように多いのです。二人のドイツ人著述家の警句は、たいてい、二匹の死にかけたネズミの金切り声を思いおこさせます。宗教的な悲しみが奏でる浄罪の調べが欠けているのです。
1. Marcus Aurelius Antoninus(121-180)第十六代ローマ帝国皇帝。著『自省録』
2. Arthur Schopenhauer(1788- 1860)ドイツの哲学者。主著『意志と表象としての世界』
3. Friedrich Wilhelm Nietzsche(1844-1900)ドイツの哲学者。著『悲劇の誕生』『ツァラトゥストラはかく語りき』『善悪の彼岸』など
4. Thomas Carlyle(1795-1881)イギリスの評論家・歴史家。ドイツ文学を研究。著『衣裳哲学』『英雄及び英雄崇拝』『フランス革命史』『過去及び現在』など
いかなる宗教的と称する態度にも、なんらかの荘厳さ、真剣さ、そして優しさがあるはずです。楽しいとき、薄ら笑いや忍び笑いであってはなりません。悲しいとき、悲鳴や呪いであってはなりません。信仰体験について、わたしがみなさんに興味を抱いていただきたいのは、まさに厳粛な経験なのです。そこで、ここで採用される「神」という語は、わたしたちにとって、単に原初的で包摂的でリアルなものを意味するものではないといったうえで、野放図な解釈はその意味を拡大するばかりなのが関の山なので、わたしはもう一度――申しわけないですが、またもや独断的になって――わたしたちの定義の範囲を狭めることにします。神とは、わたしたちにとって、個人が、厳粛荘重に対応せずにはおれないと感じる原初的な実在を意味するのであって、悪態や冗談の相手にするものではないとしておきます。
しかし、厳粛、真剣、その他同じような情緒的な属性には、すべてさまざまな影がつきまとう余地があります。定義をどのように決めるにしても、結局、鮮明に描けるような単一の概念などありえない体験の領域を相手にしているのだという現実に直面しなければなりません。そのような条件のもとでは、用語の厳密な“科学性”または“正確さ”を装ってみても、わたしたちの課題に対する理解の欠如を人目にさらすのが落ちでしょう。事物は多かれ少なかれ神聖であり、こころの状態は多かれ少なかれ宗教的であり、反応は多かれ少なかれ全的なのですが、境界は常にかすんでいて、どのような場合でも量と程度の問題なのです。それでもやはり、極端にまで突き進めば、どのような体験が宗教的であるのかについて、疑問の余地はありえなくなります。対象の神聖さと反応の厳粛さとが歴然としていれば、疑うことはありません。こころの状態が“宗教的”であるか、“非宗教的”であるか、“倫理的”であるか、“哲学的”であるか、決めかねるのは、精神状態の特質が不鮮明であるときだけのようですが、その場合、わたしたちが研究する値打ちはまったくありません。宗教的とお世辞でいうような状態にかかわる必要はなく、わたしたちがかかわって有益なのは、だれが見ても他に名づけようのないものなのです。わたしは前回の講義で、いってみれば、顕微鏡で観察したり、極端形を調べたりすれば、ものごとを最大限もらさず学ぶことができるといっておきました。これは、宗教現象でも、他の事実と同様にいえることです。したがって、わたしたちが注意を払って報われるように思われるのは、信仰心が歴然としていて、極端である事例だけです。かすかな現れは、安んじて見過ごしてもよいでしょう。たとえば、フレデリック・ロッカー・ランプソン〔*〕の"Confidences"〔『打ち明け話』〕と題された自伝を読めば、この人が絶品の好人物であることがわかりますが、次に彼の生に対する全体的な反応を見てみましょう――
Frederick Locker-Lampson (1821-95)英国の文筆家・詩人
「わたしはいまのところ定めを甘受しているので、いわゆる楽しい生活習慣や愛しい人生寓話と別れなければならないと考えても、些細な痛みしか感じない。無為に過ごした人生をもう一度生きたいとか、もっと長生きしたいとか気にしない。妙な話だが、若返りたいという願いもほとんどない。わたしは冷ややかな気持ちで受け容れる。神のみこころであり、定められた運命であるなら、わたしは謙虚に従う。まわりの人たち、だいじな人たちにとって、わたしが重荷になるので、慢性病が悪化するのではと恐れる。嫌だ! できるだけ静かに、できるだけ気楽に立ち去りたい。平安を伴うなら、終わりを迎えたい。
「この世界について、この地上での仮住まいについて、語るべきことがたくさんあるものか、わたしにはわからない。だが、わたしたちをこの世に置くことを神はよしとされたのであり、わたしとしてもよしとしなければならない。わたしは君たちにたずねたい。人生とはなにか? 人生とは、使いものにならない幸福――根拠のない期待、倦怠と気苦労、明日は明るいという奇妙なまやかしを道連れにした気苦労と倦怠ではないのか? 人生はせいぜい意地っ張りの子どもにすぎず、眠りつくまで静かにさせておくため、遊んでやったり構ったりしなければならないが、そのあとは、気苦労もおしまいである」[13]
[13] 同書、 pp. 314, 313.
これは、複雑、温和、従順、上品な精神状態です。わたし自身としては、おおまかにいって、これを宗教的な精神状態とみなしても差し支えないのですが、みなさんの多くにとっては、これではあまりにも覇気に欠け、投げやりな精神状態であり、それほどの立派な名には値しないと思えるかもしれないとあえていっておきます。でも、このような精神状態を宗教的とみなそうが、非宗教的とみなそうが、結局、なんの違いがあるのでしょうか? いずれにしても、わたしたちの授業にとってはあまりにも無意味なことです。この精神の持ち主その人は、自分ではとても勝てないと思う、宗教心旺盛な他人の気持ちを念頭に置かなければ、使うことがなかったような用語を使って、これを書いたのです。この旺盛な状態に寄り添うことこそが、わたしたちの唯一やるべき仕事であり、取るに足りない記録や判然としない境界は捨ておいてもなんら差し支えないのです。わたしは少し前に、私的宗教は、たとえ神学や儀式が備わっていないとしても、純然たる倫理の埒外にあるいくつかの要素を体現していることがわかるようになるといいましたが、そのとき、わたしの念頭にあったのは、より極端な事例だったのです。これらの要素はどのようなものかを示すことにすると気軽に約束したことを、みなさんは憶えておられるでしょう。いまになって、わたしの念頭にあったことの概略をいえます。
「わたしは宇宙を受け容れる」とは、わがニューイングランドの超越主義者、マーガレット・フラー〔*〕の好んだことばだといわれています。ある人がこのことばをトーマス・カーライルに伝えたところ、皮肉な調子でこう評したそうです――「そうか! 彼女にしては上出来!」。基本的に、倫理と宗教の両方とも全関心はわたしたちが宇宙を受容する態度にかかわっています。宇宙を部分的に不服ながらに受け容れるのか? それとも、心から完全に受け容れるのか? あるものごとに対する反抗は、徹底的で容赦ないものなのか? それとも、悪にさえ、善にいたるはずの生きかたはあると考えるのか? わたしたちが完全に受容するとすれば、お手上げ状態で服従するかのようにして――カーライルなら「そうか! われわれにしては上出来」というでしょうが――そうするのか? それとも、熱烈に同意して、そうするのか? 純然たる倫理は、権威とみなす存在全体の法則を認識し、従う限りにおいて、それを受け容れますが、従うにしても、このうえなく深刻で、このうえなく冷えた気持ちからのようであり、その法則をあくまでも軛と感じています。だが、宗教にとって、その強烈で完全に発達した現れにおいて、至高者を礼拝することは決して軛とは感じられません。味気ない服従はかなたに置き去られ、明朗な静けさから熱烈な喜びにいたる尺度のいずれの位置にあっても、歓迎の気分がその場に満ちます。
Margaret Fuller(1810-50)書評家、フェミニスト
宇宙を受容するにしても、必要により禁欲的に観念して、生気なく、色あせた気分で受け容れるのか、それとも、キリスト教の聖人の熱烈な幸福感を抱きながら受け容れるのかでは、途方もない違いを情緒と実践にもたらします。その違いは、受動性と能動性の違いと同じほど、守りの構えと攻めの構えの違いと同じほど大きいのです。ある個人がひとつの状態から他の状態へと成長していくステップは少しずつ進むので、それぞれの個人が見せる中間的な段階は数多くありますが、典型的な極端例を比較のために並べてみると、みなさんは、たがいに連続しない二つのこころの宇宙が目の前にあると感じ、一方から他方へ移るさいに“臨界点”が突破されたのだと思われることでしょう。
禁欲主義者の叫びとキリスト教徒の叫びを比べてみると、教義の違い以上のものを見受けます。両者を隔てるものは、むしろ情緒的な気分の違いなのです。マルクス・アウレリウスがものごとを定める永遠の理由について考えをめぐらせたとき、その言葉に凍りつくような冷たさがあり、それはユダヤ教徒の宗教的な書き物ではめったに見当たらず、キリスト教徒のそれではまったく見当たらないものです。これら筆者の全員が宇宙を“受容”しています。だが、ローマ皇帝の精神にどれほど情熱や歓喜がかけていることか! 彼の「神がみがわたしやわたしの子どもたちを気遣わないなら、その理由がある」という立派な文を、ヨブの「神はわたしを殺されるかもしれない。だが、わたしは神を信頼いたそう!」〔旧約聖書ヨブ記15-13〕という叫びと比べてみましょう。そうすれば、わたしのいう違いがすぐにわかります。アニマ・ムンディ〔Anima mundi(ラテン語)世界霊魂〕とは、ストア哲学者が自分の運命を支配すると認めた存在ですが、これが尊重し従うべき対象であるのに対して、キリスト教の神は愛されるべき対象なのです。現実の条件を受容するという帰結は、抽象的なことばのうえでは文句なくほぼ同じなのですが、情緒の温度差は、北極圏気候と熱帯気候の違いに匹敵します。
マルクス・アウレリウスはこういいます――
「人間の義務とは、みずからを慰め、自然崩壊を待ち望み、いらだつことなく、次のような考えのみに気分の回復を求めることである。第一に、宇宙の本質に調和しないことは、いっさいわが身に起こらない。第二に、神とわが内なる神性とに反することは、いっさいする必要がない。わたしに破戒を無理強いできる人はいないからである。世のできごとを喜ばず、われわれに共通の本質である理からわが身を引き剥がす人は、宇宙にできた膿瘍である。その同じ本質が世のできごとをつくったのであり、汝をも生んだからである。だから、気に食わないようでも、宇宙の安寧とゼウスの繁栄・慶賀につながるゆえに、すべてのできごとを受け容れること。ゼウスは、全体にとって無用なものは、なにひとつ何人にももたらさないからである。なんであれ、汝が切り落とせば、全体の統一は損なわれる。おまけに汝は、気に食わないからといって、力のかぎり、なんでも道から取り除かんといった調子で切り落としてしまう」[14]
[14] 『自省録』Book V., ch. ix, 要約。
では、この態度と、『ドイツ神学』〔Theologia Germanica 作者不詳の神秘主義文献〕を著した古のキリスト教徒のそれとを比べてみましょう――
「人が真実の光に照らされると、あらゆる望みと好みを絶って、わが身といっさいとを永遠なる善に捧げ、委ねるので、照らされた人はみな、『人の手が人に対してあるように、われは喜んで永遠なる善に対してあろう』といえる。そのような人は、苦しみや地獄の恐れ、報いや天国の望みを失い、永遠なる善への心からの帰依のうちに、燃えるような愛のまことの自由のうちにあるので、自由の境地に生きる。人がみずから、われはだれ、われは何者と真に察し、認め、われはまったく卑しく、邪まな、恥ずべきものと悟るとき、天と地の生類こぞって、わが身に対して決起するのも当然と思えるほどに深い堕落を覚える。それゆえ、人はいかなる慰めも赦しも願わないし、あえて願わなくなる。それどころか、慰められず、赦されないままであれと思う。人の目にわが身の苦難は正当であり、言い分はありえないので、その人はおのれの苦しみを悲しまない。これが、罪に対するまことの悔い改めの意味である。このいまのとき、この地獄に落ちている人には、だれにも慰めるすべがない。ところが、神はこの地獄にいる人を見捨てず、御手をその頭に置かれ、ただひとつ永遠なる善、それ以外のものはなにもほしがらず、願わないようになされた。このように、人が、ただひとつ永遠なる善、それ以外のものを欲しがりも願いもしなくなり、われとわれのものを求めず、神の栄光のみを求めると、その人は、あらゆる形の喜び、至福、平安、安らぎ、慰めに与るものとされ、これからは天の国にあるとされる。この地獄と天国は、人にとって二つのまことに安らかな道であり、それらをまことに見つけるものは幸いである」[15]
[15] 第十、十一章、要約。ウィンクウォース〔Catherine Winkworth(1827-78)聖歌翻訳家〕による翻訳。
宇宙におけるわが身の立場を受け容れるのに、このキリスト教徒の書き手のほうが、なんとずばぬけて積極果敢であるか! マルクス・アウレリウスは理に同意します――ドイツの神学者は理を甘受します。彼は甘受の一心で文字どおりにいっぱいになり、駆けだして、神のみこころを抱きしめます。
確かに、折に触れて禁欲主義者の気持ちがキリスト教徒の温かな心情らしきものに高まることがあり、それがしばしば引用される次のようなマルクス・アウレリウスのことばにも示されています――
「おお、宇宙よ、汝と調和するいっさいのものは、わたしと調和する。汝にとって時宜にかなういっさいのものは、わたしにとって早すぎも遅すぎもしない。汝の四季が与えるいっさいのものは、わたしにとって果実である。汝からいっさいのものが来たり、汝のうちにいっさいのものが在り、汝にいっさいのものが還る。詩人は謳う。愛しのケクロプス〔Cecrops, ギリシャ神話の初代アテナイ王〕の街よ、と。では、そなたは謳わないのか? 愛しのゼウスの街よ、と」[16]
[16] Book IV., 523
だが、これほど敬虔なことばでさえ、まことのキリスト者の告白に比べると、少しばかり冷たくなります。たとえば『キリストに倣いて』〔トマス・ア=ケンプス(Thomas à Kempis, 1380-1471)著〕から引用してみましょう――
「主よ、なにが最善か、あなたはご存知です。あれかこれかは、御心のままになさってください。御心にかなうものを、御心にかなうだけ、御心にかなうときにお与えください。あなたが最善と思し召しのように、あなたの無上の誉れとなるように、わたしをお扱いください。御心にかなうところにわたしを遣わし、わたしにまつわるいっさいのことに思し召しのまま御心を巡らせてください……あなたが近くにおられるとき、いつ禍となりうるでしょうか? あなたなくして富むより、わたしはあなたのために貧しくなりましょう。あなたなくして天国を手に入れるより、あなたとともに地上の巡礼となることを選びます。あなたのいるところに、天国はあります。あなたがいないところには、ご覧なさい、死と地獄です」[17]
[17] ベンハム〔Benham〕による翻訳。 Book III., chaps. xv., lix. メアリー・ムーディ・エマソン〔Mary Moody Emerson(-1863)R・W・エマソンの叔母〕の次のようなことばを参照のこと。「わたしは、この清らかな世界の汚点となろう。最底辺に落ち、孤独このうえない受難者になろう。だが条件がひとつ――それが神の摂理とわたしが知るならば。神がわたしのすべての道に霜と暗闇をもたらそうとも、わたしは神を愛する」 R. W. Emerson: Lectures and Biographical Sketches, p. 188.
ある臓器の役割を研究するさい、その最も特異で特徴的な働きを探り、そのさまざまな機能のうち、ほかの器官が担えない一つの機能を求めて、その役割とすることは、生理学の用いる信頼できるルールです。現在のわたしたちの探求でも、同じ原則が確かに有効です。宗教体験の本質、わたしたちの最終的な判断基準となるものは、ほかの場では見つからない要素や特質であるはずです。そのような特質は、もちろん、このうえなく偏り、誇大・強烈な信仰体験のうちに最も明瞭に現れ、それだけ気づきやすいことになります。
さて、これら強烈な体験を、宗教というよりも哲学とみなしたくなるほど覚めていて合理的である、もっと穏やかな精神の体験に比べてみると、申し分なく際立った特色に気づきます。わたしが思うに、その特色こそは、わたしたちの目的にかなう、宗教の実質的に重要な特異性とみなされるべきものなのです。抽象概念としてのキリスト教徒精神と、同じく抽象概念としての道徳家精神とを比較することによって、まさにそれがなにかが簡単に明らかになります。
取るに足りない個人的な都合を省みず、たとえ個人的な損失や苦痛を招くとしても、エネルギーを要する客観的な目的に突き動かされる程度に応じて、わたしたちはそういう生きかたを、男らしい、ストイックだ、道徳的だ、達観しているといいます。“志願兵”を募る場合に限っていえば、これは戦争のよい側面です。徳性にとって、人生は戦争であり、至高者礼拝は、やはり志願者を求める一種の宇宙的愛国行動なのです。外面的には戦闘員になれない病人でさえも、道徳戦争を遂行することはできます。その人はみずからの意思で、この世であれ、あの世であれ、みずからの将来から目をそらすことができます。いまの自分に短所があっても、気にしないように自己訓練し、手がけられさえすれば、どのような客観的な関心事でも没頭することができるようになります。世間に流れるニュースを追い、他の人びとの事情にこころを寄せることができます。朗らかな態度を培い、わが身の惨めさを語らないでいることができます。みずからの価値観が示すことのできる、存在の理想的な側面のすべてをじっくり考え、みずからの倫理観が求める、忍耐、放棄、信頼といった義務をすべて実践することができます。そのような人間は、最高に崇高で広大な地平に生きています。その人は、高潔な自由人であり、嘆き暮らすような奴隷ではありません。それでも、その人には、最上級(par excellence)キリスト者、たとえば、秘教的な禁欲の聖人に豊かに備わるあるものが欠けていて、その欠けている点が、その人をまったく違った部類の人間にしています。
キリスト教徒もまた、やつれ、塞ぎこんだ入院患者の態度を拒みますし、聖人たちの生きかたには、たぶん他のいかなる人間記録にも見かけないほど、体の病状に対して、ある種の無頓着を示す例がいっぱいあります。だが、単に道徳的に拒絶する場合、意思的な努力を要するのに対して、キリスト教徒の拒絶は、より気高い感情が昂ぶった結果であり、そのさなかに意志力を奮い立たせる必要はありません。道徳家は、息を詰め、筋肉を引き締めなくてはなりません。このような体育会系の姿勢が可能であるかぎり――倫理観が充足し――万事うまくいきます。ところが、体育会系の態度は、とかく破綻するものであり、身体が衰えはじめたり、病的な恐怖がこころを蝕んだりするとき、このうえなく信念堅固な者でさえ、どうしようもなく破綻してしまいます。癒やせない無気力感に打ちひしがれている人に、やる気を出せ、頑張れ、と元気づけるのは、不可能なことをしろというようなものです。その人の切なる望みは、無力そのもののさなかに慰められること、衰え、くじけるさなかにあって、宇宙の霊が自分を認め、守ってくれると感じることです。さて、わたしたちはみな、このような頼みの綱にすがりつく無力な落ちこぼれなのです。わたしたちのうち、このうえなく健全なこころの最善の人でも、精神異常者や囚人と同じひとかけの土くれであり、最もたくましい人でも、最期のとき、死に追いつめられます。わたしたちがこのように感じるときいつも、自分の意思で生きてきた人生行路のむなしさとはかなさを実感して、圧倒されますので、わたしたちの道徳性のすべては、それでは治せない傷を隠すための単なる貼り薬、わたしたちの善き行いのすべては、人生の基礎であるべきなのですが、悲しいかな! そうではなかった善き生きかたの空虚なことこのうえない代用であると思えるのです。
ここで、宗教が救いに来て、わたしたちの運命をその手中に収めます。信仰者には知られていて、他のだれにも知られていないことですが、自己を主張し貫く意思が、口を閉ざす覚悟に置き換えられ、神の洪水と竜巻のなかで無となる、そのようなこころの状態があります。このような精神状態で、最も恐れていたものが安全な避難所になり、道徳の死のときが霊的な誕生に転じます。わたしたちの魂の緊張のときは終わり、愉快なくつろぎ、おだやかな深呼吸のとき、不安な未来を案じることのない永遠のいまが到来したのです。単なる道徳の場合と違って、この場合、恐怖は棚上げされるのではなく、きれいに消し去られ、洗い流されます。
この講座の後ほどの講義で、この幸福な精神状態について、たくさんの例を見ていくことにしましょう。宗教というものが至高にまで飛翔するとき、どれほど限りなく熱烈なものになれるものか、わたしたちは見ることになります。宗教は、愛のように、憤怒のように、希望、野心、嫉妬のように、その他すべての本能的な激情や衝動のように、他のなにものにも合理的・論理的に期待できないような魔法を人生にかけます。この魔法がかけられるとき、賜物としてかけられるものですから――生理学者なら、身体反応の賜物と論じ、神学者なら、神の恩寵と説くのでしょうが――その賜物は、わたしたちにとって、あったりもすれば、なかったりもするものであって、あてがわれた女を愛するのだ、と号令をかけられるだけで、恋に落ちるわけがないのと同じで、この魔法にかからない人もいます。このように、宗教的な感覚は、本人の生きる範囲にとって、絶対的な付加物なのです。それはその人に新たな力の領域をもたらします。外面的な戦いに敗れ、外部世界から排除されるとき、その力は、むなしく荒れていたはずの内面世界を、回復し、活気づけます。
宗教がわたしたちにとって決定的ななにかを意味するとすれば、厳密な定義での道徳性の場合、せいぜい頭を垂れ、黙認するしかない領域における、この付加された次元の感情、婚礼に比すべきこの熱狂的な気分を意味すると理解するべきであるとわたしには思えます。宗教は、わたしたちにとって、苦闘が終わり、宇宙の基調音が耳に鳴りひびき、永遠の領地が目の前に広がる、この自由の新境地にほかならないものを意味するはずです。[18]
[18] もう一度、述べておくが、この熱狂が信仰生活に欠けている人たち、生まれつき重苦しい気性の人たちは大勢いる。広い意味でいえば、こういう人たちも宗教的であっても、厳密な意味では、宗教的であるとはいえず、わたしとしては、その典型的な違いを解明したいので、ことばの論争を離れ、厳密な意味での宗教の研究を第一にしたい。
絶対的なるもの、永遠なるものにかかわるこの種の幸福感は、宗教のほか、どのような場でも見当たりません。それは、すでにわたしがとても大事だと強調しておいた厳粛さの要素によって、単なる肉の喜び、単なる現代の享楽から分かたれています。厳粛さは、抽象的に定義することが困難なことばですが、その表れのいくつかははっきり見えます。厳かな精神状態は――それ自体の対立要素がいくぶんか溶けこんでいるようであり――粗野であったり単純であったりはしません。厳かな喜びは、甘美さのなかにある種の苦さを帯びています。厳かな悲しみは、気持ちよく受け容れることができます。だが、至高の類の喜びは宗教の特典であると理解しながら、この複雑さを忘れ、あらゆる幸福感を指して、それ自体が宗教的であるという物書きがいます。たとえば、ハヴロック・エリス氏〔Henry Havelock Ellis(1859-1939)英国の医師・性科学者〕は、宗教を重苦しい気分からの魂の解放のありとあらゆるものと同一視して、次のように書いています――
「生理作用の最も単純な働きであっても、宗教の召使でありうる。ペルシアの秘教を熟知しているものはみな、ワインが宗教の小道具でありうると知っている。実に、あらゆる国、あらゆる時代で、身体的拡張――歌唱、舞踏、飲酒、性的興奮――は、礼拝と密接に連携してきた。笑いにおける瞬間的な魂の拡張でさえも、いかにささやかな範囲内であっても、宗教の修行なのだ……世界からの刺激が体に達し、その結果に不快も痛みもなく、精力的な成年男子に筋肉の収縮さえ起こさず、魂全体に愉快な拡張または高揚をきたすとき――いつでも宗教がある。それが、われわれの渇望する無限なるものであり、それに向かってわれわれを運んでくれる見込みがあるすべての小波に、われわれは喜んで乗るのである」[19]
[19] The New Spirit, p. 232.
しかし、宗教とありとあらゆる形の幸福感とを、これほど身もふたもなく一緒くたにしてしまうと、宗教的な幸福の基本的な特性は置き去りにされてしまいます。わたしたちの感じるありきたりの幸福とは、不幸をこうむったり、恐れたりする羽目から一時的に逃げる結果としての“安堵”なのです。だが、宗教的な幸福は、その最も特質的な実態において、単なる避難の感覚ではありません。それは、もはや避難にこだわっていません。外面的には、犠牲のひとつの形として不幸を受け容れます――内面的には、不幸は永遠に克服されると承知しています。信仰がこのように茨に身を投げ、死に向かい合い、その営みそのものにおいて、破滅を免れるのはいかにしてか?とみなさんが問われても、それこそが宗教の秘密であり、これを理解するためには、みなさんご自身が極端なタイプの信仰者でなければなりませんので、わたしには説明できません。後日に紹介する事例でいえば、最も単純、精神的に最も健全なタイプの宗教意識の信仰にさえ、この複雑な犠牲構造が見受けられ、その構造のなかで、高次元の幸福が低次元の不幸を抑えこんでいるのです。ルーブル美術館に、グイド・レーニ〔Guido Reni(1575-1642)イタリア、バロック期の画家〕による、サタンの首を踏みつけにした聖ミカエル〔旧約聖書『ダニエル書』に言及される大天使〕の絵があります。その絵の味わいは、主として、そこに描かれた悪魔の姿にあります。その寓意の味わいもまた、悪魔の存在にあります――つまり、悪魔がいることによって、ただしわたしたちがその首を踏みつけているかぎりにおいて、世界はそれだけ豊かになります。宗教意識において、これが、悪魔、つまり否定的、または悲劇的な原理が見つかる位置なのです。そして、まさにこの理由により、情緒の観点から見て、宗教意識はこれほど豊かなのです。[20] 後ほど、わたしたちは、いかにしてこの原理が特定の男女において途方もなく禁欲的な形になるのかを見ることになるでしょう。否定的原理、屈辱や欠乏、そして苦しみの受忍や死の思いを文字どおりの糧にした――外面的な状態が耐えがたくなるのに正比例して魂の幸福感を募らせた――聖人たちがいます。宗教情動のほかには、人間をこのように特異な道にいざなう情動はありません。人間の生きかたにとっての宗教の価値について問うとき、わたしが穏健な傾向の例よりも過激な例に答を探すべきだと考えるのは、この理由によります。
[20] この寓意的な例証は、わたしの惜しまれる同僚にして友人、故チャールス・キャロル・エヴァレット〔Charles Carroll Everett(1829-1900)ハーヴァード大学神学部教授〕に負っている。
まず始めに考えられるかぎり先鋭的な形の現象を研究すれば、その後で、好きなように加減を落とすことができるようになります。極端な事例が日常の世俗的な判断基準に照らして嫌悪すべきものであっても、わたしたちとしては、それらに宗教的価値を認め、敬意をもって扱うしかないとわかるなら、ある意味で、その生きかた全般にとっての価値が証明されたことになります。過激さを減じ、抑えることによって、その結果、その正当な領分の線引きに取りかかれるかもしれません。
確かに、これほどおぞましい思いをして奇抜な例や極端な例をテーマにしなければならないなら、わたしたちの課題は困難なものになります。みなさんは、「宗教の兆候のそれぞれすべてが次から次へと矯正されたり、緩和させられたり、削除されたりしなければならないとすれば、全般的に見て、どうして宗教はあらゆる人間の営みのうちで最も重要なものでありうるのだろうか?」と問うかもしれません。このような論点は、合理的に維持するのが不可能な逆説であるようです――それでもわたしは、そのようななにかがわたしたちの最終的な論点にならなければならないだろうと信じています。自分が聖なるものと察知する存在――みなさんも憶えておられるでしょうが、わたしたちが定義したあの存在――に対して、個人がやむにやまれず取らざるをえないと駆りたてられる、あの人間としての姿勢は、無力でもあり、犠牲的でもある態度であるとわかることになるでしょう。つまり、わたしたちは魂としての命を守るために、純然たる慈悲に対する少なくともある程度の依存を告白し、ある程度の放棄を多かれ少なかれ実践しなければならないことになるでしょう。わたしたちの生きる世界の構造が、それを要求しているのです――
「我慢しろ、我慢しろと、
のべついわれてきた。
それが世間の合唱ってものだ。
耳のそばで、しゃがれ声で歌いつづける」〔*〕
のべついわれてきた。
それが世間の合唱ってものだ。
耳のそばで、しゃがれ声で歌いつづける」〔*〕
〔ゲーテ『ファウスト第一部』池内紀訳〕
というのも、どうあがいても結局、わたしたちは絶対的な意味で宇宙に依存しているからです。わたしたちは、慎重に検討したうえで受け容れたある種の献身と帰依の境地へと、それが唯一の永続的な安息の場であるかのようにして惹きつけられ、駆りたてられるのです。さて、信仰の境地に達していない精神状態においては、服従は避けられない義務として甘受され、犠牲はせいぜい不平をいわずに耐えているにすぎません。反対に宗教的な生活では、帰依と献身は肯定的に信奉されています。幸福感を強めるために、不必要な放棄を付け加えるようなことさえします。このように、信仰は、いずれにしろ必要なことを容易なことに、喜ばしいことにします。宗教が、このような結果を成就するための唯一の媒体であるなら、その人間の営みとして不可欠な重要性は、議論の余地なく実証されたことになります。いうならば、単に生物学の観点から見ても、いまわたしが見るかぎりでは、これが必然的にたどりつくはずの結論であり、第一講で概略を語った、純粋に経験主義的な手法でもたどりつける結論です。超自然的な啓示としての宗教のさらなる働きについては、いまはなにも語らないことにします。
だが、研究の終着点を予告することと無事に到着することとは別のことです。次回の講義では、これまでわたしたちを夢中にさせてきた極端な一般論を離れることとし、具体的な事実にじかに向き合うことによって、じっさいの遍歴に旅立つことにします。
(C)2012 Inoue Toshio