第四・五講
健全な精神の信仰
THE RELIGION OF HEALTHY—MINDEDNESS
幸福が人間の主な関心事――“一度生まれ”人格と“二度生まれ”人格――ウォルト・ホイットマン――ギリシャ人の感覚の混じりあった性質――意図による健全なる精神――健全なる精神の合理性――リベラルなキリスト教がそれを示す――通俗科学が鼓舞する楽観主義――“精神療法”運動――その信条――事例――その悪に対する教義――そのルター派神学との類似――リラクセーションによる救済――その手法:暗示――瞑想――“黙想”――検証――宇宙に対するありうる適応の枠組みの多様性――付録:二件の精神療法事例
わたしたちが「人間生活の主要な関心事はなんですか?」と問われるなら、答のひとつは「幸福」になるはずです。幸福を得る手立て、保つ手立て、回復する手立て――これは、あらゆる時代のたいがいの人にとって、事実上、すべての行為や、どんなことでも耐える意思の裏に秘められた動機になっています。倫理学の快楽主義派は、さまざまな行為がもたらす幸・不幸の経験によってあらゆることを説明しますし、また道徳生活よりも宗教生活ではなおさら、幸か不幸かが関心の駆けめぐる両極になるように思えます。先日、引用した著者に同調して、いかなる長持ちする熱中も、それはそれとして宗教であるとまでいったり、単なる笑いが宗教的な営みであるといったりする必要はありませんが、いかなる持続的な楽しみであれ、とても幸せなありかたの賜物を感謝して賛美する類いの宗教を生みだすかもしれないことは認めなければなりませんし、ありのままの生活の当初の賜物が、おのずからしばしば実証されているように不幸なものである場合、宗教を体験するもっと複雑な道が、幸福をもたらす新しい方法、超自然的な類いの幸福にいたる、すばらしい内面的な道であることもまた認めなければなりません。
宗教と幸福のこのような関係を考えると、人は宗教的な信念がもたらす幸福をその真実であることの証明とみなすようになるのも、たぶん驚くにはあたりません。信条が人に幸せだと感じさせるなら、その人はほぼ必然的にそれを受け容れます。そのような信念は真実であるはずだ。したがって、これは真実なのだ――正しいかまちがっているかはともかく、こういうのが世の人の用いる宗教論理の“直覚推理”のひとつなのです。
あるドイツ系著述家はこういいます――
「神の霊の間近な存在は、その実在のうちに体験されるだろう――ほんとうに体験されるだけなのである。霊が存在すること、身近にあることを体験したことのある人に反論の余地なく明白になるしるしは、完全に比類のない幸福感であり、それは身近にあることと関連していて、したがって、わたしたちがこの地上にあってもつことが可能であり、全面的に妥当な感覚であるばかりではなく、神の実在の最良不可欠な証拠にもなる。これに等しく確実な証拠は他になく、したがって、幸福は、あらゆる有効な新しい神学の出発点になるべきである」[31]
この時間では、単純な種類の宗教的幸福の考察にみなさんをお誘いすることとし、もっと複雑なものは後日に扱うことにします。
多くの人にとって、幸福は先天的なもの、かけがえのないものです。彼らにとって、“宇宙感情”は必然的に熱狂と自由の形をとります。わたしは動物的に幸福である人たちのことだけをいっているのではありません。不幸を押しつけられたり突きつけられたりすると、まるで卑しく不当なものであるかのように、それを感じるのを決然と拒む人たちのことをいっているのです。そういう人たちはいつの時代にもいて、自分自身の状況の辛酸にもかかわらず、生まれ落ちた社会の神学の辛辣さにもかかわらず、善なる人生の感覚に熱情的にわが身を預けています。発端から、彼らの宗教は聖なるものとの和合のそれです。初期キリスト教徒たちが熱狂騒ぎの放縦ゆえにローマ人に糾弾されたのとまさしく同じように、改革以前の異端者たちは無律法主義的なふるまいゆえに教会の物書きらから口を極めて弾劾されました。相当数の人びとが、人生を悪と考えるのを熟考したうえで拒むことを理想とし、公に、あるいは隠密に教派を結成し、あらゆるありのままのことが許されていると主張する、そのようなことがなかった世紀はひとつとしてなかった、これはありうることです。聖アウグスティヌス〔Aurelius Augustinus(354-430)神学者・哲学者・説教者〕の箴言、(神を)愛するなら、思うようにふるまってよい――Dilige et quod vis fac――は、いまなお含みのある言葉ですが、旧来の道徳の限界を超えるパスポートを携えた、そのような人たちにとって、道徳的にこのうえなく意味深い言葉のひとつです。彼らは、それぞれの性格によって洗練されていたり粗野だったりしていました。が、いつの時代でも、彼らの信念はじゅうぶんに意図的であり、確かな宗教的態度が備わりました。彼らにとって、神は自由の贈り主であり、悪の痛みは克服されました。聖フランチェスコ〔Francesco d'Assisi (1182-1226)フランシスコ会の創設者〕とその直弟子たちは、総じて、この精神の一門であり、これにはもちろん限りなく多種多様な流れがあります。著作初期のころのルソー〔Jean-Jacques Rousseau(1712-78)スイス生まれの哲学者・政治哲学者・教育思想家・作家・作曲家〕、ディロド〔Denis Diderot(1713- 84年)フランスの啓蒙思想家・作家〕、B・ド=サンピエール〔Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre(1737-1814)フランスの作家・植物学者〕、それに一八世紀の反キリスト教運動の多くの指導者たちは、この楽天家タイプの人たちでした。彼らの影響力は、自然を相応に信頼しさえすれば、自然は絶対的に善であるという彼らの感覚の正統性に負っていました。
わたしたちみな、なんらかの友人、たぶんたいがいの場合、男性的であるよりも女性的、年寄りであるよりも若者、魂がこの青空の色合いをたたえ、好みは暗い人間の受難ではなく、花々や鳥たちやあらゆる魅惑的な純粋さ、人間や神の悪を思わず、宗教的な喜びがもともと備わっていて、もとよりの重荷からの解放の必要がない、そういう友人をもっているのが望ましいのです。
「神は、二系統の子どもたち、一度生まれと二度生まれをこの地上にお持ちである[32]。この人たちは神を厳格な審判者、荘厳な支配者としては見ない。彼らは神を慈悲深く親切で純粋であると同時に、寛大で美しく調和した世界の生気を吹きこむ霊であると見る。この性格の人たちは、がいして抽象的な思考を好まない。彼らは自己を省みない。だから、みずからが未熟であるとしても苦しまない。それでも、彼らを独りよがりと決めつけるのは、ばかげているだろう。というのも、およそ自己についてまったく考えないからだ。この天性的な子どもっぽい性格のおかげで、彼らにとって宗教の門戸は非常に幸せなものになる。というのも、親が皇帝の前で震えても、子どもはひるまないものだが、それ以上に神にひるむことがないからだ。じっさい、厳格な神の威光をなす性質のいずれについても、彼らははっきりした概念をもっていない[33]。彼らは、混沌とした人間世界のなかにではなく、ロマンチックで調和した自然のなかに神の性格を読みとる。人間の罪について、おそらく彼らはみずからの心中にはほとんど知らず、世界のなかでもそれほど多く知ってはいない。人間の苦難は、彼らを優しさのなかに溶けこますだけである。このように彼らが神に近づくとき、内心の動揺は起こらない。いまだに霊的になっていないので、彼らの単純な礼拝にはいくらかの自己満足、それにおそらくはロマンチックな興奮の感覚がある」
[32] The Soul; its Sorrows and its Aspirations, 3d edition, 1852, pp. 89, 91.
[33] わたしは、ある女性が「いつも神に寄り添うことができる」と考えてえられる楽しみについて語るのを聞いたことがある。
[33] わたしは、ある女性が「いつも神に寄り添うことができる」と考えてえられる楽しみについて語るのを聞いたことがある。
ローマ・カトリック教会のほうがこのような性格が育つのにより好都合な土壌があって、プロテスタントでは、どうしようもなく悲観的な系列の精神が感じかたの流れを決めています。だが、プロテスタント教会にさえも、こういう性格はたっぷりあります。また、最近のユニテリアン〔*〕“自由主義”運動や信教自由主義一般では、この系統の精神が先導的で建設的な役割を担ってきましたし、いまも担っています。エマーソン〔Ralph Waldo Emerson(1803-82)米国の思想家・詩人、超越主義を主導〕その人が賞賛に値する一例です。セオドア・パーカー〔Theodore Parker(1810-60)米国の超越主義者。ユニテリアン教会牧師〕もその例です。パーカーの書簡[34]から持ち味のある文節をふたつ読んでみましょう――
*三位一体の教義を排し、神の唯一性を説き、キリストの神としての超越性を否定する。個人の信仰の自由や宗教における理性の活用を容認する。
[34] John Weiss: Life of Theodore Parker, i. 152, 32.
[34] John Weiss: Life of Theodore Parker, i. 152, 32.
「正統派の学者らは、『異教徒の古典には、罪の意識が見当たらない』という。まことにそのとおり――神は誉められるかな。異教徒は、怒り、残酷や貪欲、酔っ払い、肉欲や怠惰、臆病、その他の現実的な悪を意識し、苦闘し、堕落を取り除いたが、“神に対する反感”を意識しなかったし、座りこんでは、存在しない悪に対して泣き言をいったり、不満の声をあげたりはしなかった。わたしは人生で間違ったことをたっぷりしてきたし、いまもしている。的を外しては、弓を引いて、やりなおす。だが、神を、あるいは人間を、あるいは正義を、あるいは愛を憎んでいるとは意識しないし、“わたしのうちなる健全さ”がたっぷりあり、わたしの体内には、肺病と聖パウロが宿るにもかかわらず、いまでさえ、善きものがたくさん宿っていると知っている」。
もう一通の手紙にパーカーは次のように書いています――
「わたしは、生涯、きれいで心地よい水域を泳いできた。ときには少しばかり冷たく、逆流になり、いくらか荒れることもあったが、強すぎて突き進んで泳ぎきることができないということはなかった。草地をよちよち歩いていたほんの幼少のころから……いまの髭が灰色の男盛りになるまで、記憶というミツバチの巣には蜜が残されているばかりであり、わたしはそれを目下の楽しみの糧にしている。歳月を振り返ると……かくも小さなものごとが死すべき者をかくも甚だしく豊かにできるものだと思い、甘美さと驚異の感じでわたしは満たされる。だが、告白しなければならないが、わたしの喜びの最大の中核には信仰がある」
まっすぐ自然に発達し、病的な悔恨や危機の要素のない“一度生まれ”タイプ意識の表現の好例がもうひとつ、スターバック博士のアンケート回状のひとつに対するユニテリアン説教師にして作家、エドワード・エヴァレット・ヘイル博士〔Edward Everett Hale(1822-1909)〕の回答にあります。一部を引用してみます――
「宗教的な苦闘が英雄の造形にほとんど不可欠であるかのように多くの伝記に書きこまれているのを見て、わたしははなはだ残念に思う。わたしのように、宗教が単純で合理的なものとされる家庭に生まれ、そのような宗教の教説で訓育され、一刻として、こうした宗教的または反宗教的な苦闘がなんなのかを知ることのない人は、だれでも長所をもつものであり、人からとやかく言われる筋合いはないとわたしは話さなければならない。わたしは、神がわたしを愛したもうと常に知っていたし、神がわたしを置きなさった世界のゆえに、わたしは常に神に感謝している。そのことを神に告げるのが好きだったし、神の忠告を受けるのが常にうれしかった……わたしが成人になろうとしていたころ、当時の半哲学的な小説なるものが、“人生問題”に直面する若い男たちや娘たちについてとやかく語っていたことを完璧に思い出すことができる。人生の問題はなにかについて、わたしにはなんの考えもなかった。全力を尽くして生きることはわたしには容易だった。学ぶべきことがどっさりあるなら、学ぶのが愉快に思えたし、それはもちろんのことだった。機会があれば、人に手を貸すのは当然だった。これをやっていたのであれば、もちろんのこと、人生を楽しむのであり、というのも、楽しまないわけにはいかないのであって、楽しむべきだとみずからに言い聞かせることもなかったのである……君は神の子どもだ、君は神のうちに生き、行動し、存在するのだから、どんな困難にあっても、君の手にはそれを克服する無限の力がある、と早いうちに教えられた子どもは、君は怒りの子どもに生まれたのであり、善いことはまったくできないといわれた子どもに比べて、人生を楽に受け止め、おそらくもっと大事にすることだろう」
[35] Starbuck: Psychology of Religion, pp. 305, 306.
[35] Starbuck: Psychology of Religion, pp. 305, 306.
このようなものを書く人たちは、体質的に世界の陽気な面を重んじようとする気質の持ち主であり、反対の気質の人たちが暗い側面をクヨクヨ悩みつづけるのとは違って、いつまでも思いわずらうことを宿命的に禁じられていると考えるしかありません。ある人たちの楽観主義は、ある意味で病気になりかねません。そういう人には、一過性の悲しみを覚えたり、一時的にへりくだったりする能力すら、一種の先天性知覚麻痺により欠落しているようなのです。[36]
[36] 「哲学者たちが、いつの日か、いかなる自然法則に欝の思いを帰することになるのか、わたしは知らない。わたし自身としては、こういう思いはあらゆる感情のなかで最も官能的であると気づいている」とサンピエールは書き、それに応じて、自然に関する彼の著作の数章を――章を追うごとに楽観的になる――崩壊の喜びPlaisirs de la Ruine, 墳墓の喜びPlaisirs des Tombeaux, 自然の崩壊Ruines de la Nature, 孤独の喜びPlaisirs de la Solitudeに割いている。
このように悲哀に快楽を見つけるのは、青年期にごく一般的である。真実の語り部、マリ・バシュキルツェフ〔Marie Bashkirtseff(1858-84)ウクライナ出身の女性画家・彫刻家・日記作家〕は、このことを次のように巧みに表現している――
「彼が憂鬱であり恐ろしい不断の苦悩にさいなまれているとしても、わたしは生を糾弾しない。それどころか、わたしは生を好み、よいものだと思う。あなたには信じられるだろうか? わたしはすべてよいもの、心地よいものと受けとり、わたしの涙、わたしの悲嘆でさえもそうなのだ。わたしは泣くのを楽しむ。わたしはわたしの絶望を楽しむ。いらだち、悲しみを楽しむ。こういうものがとてもどっさりある気晴らしであるかのように感じ、あらゆることにもかかわらず、わたしは生を愛する。わたしは生きつづけたい。これほど順応しているのに、わたしが死ぬようなことがあれば、残酷というものであろう。わたしは泣き、悲嘆し、同時に喜んでいる――いや、これでは正確ではない――これをどのように表現すればよいのか、わたしにはわからない。だが、生のあらゆることがわたしを喜ばせる。わたしはすべてが心地よいと思い、幸福を祈るさなか、惨めであることに自分が幸福であると気づく。これすべてに耐えているのはわたしではない――わたしの体は泣き叫ぶ――だが、わたしのうちなるわたしを超えたなにものかがこれらすべてを喜んでいる」[37]
[37] Journal de Marie Bashkirtseff, i. 67.
このように悲哀に快楽を見つけるのは、青年期にごく一般的である。真実の語り部、マリ・バシュキルツェフ〔Marie Bashkirtseff(1858-84)ウクライナ出身の女性画家・彫刻家・日記作家〕は、このことを次のように巧みに表現している――
「彼が憂鬱であり恐ろしい不断の苦悩にさいなまれているとしても、わたしは生を糾弾しない。それどころか、わたしは生を好み、よいものだと思う。あなたには信じられるだろうか? わたしはすべてよいもの、心地よいものと受けとり、わたしの涙、わたしの悲嘆でさえもそうなのだ。わたしは泣くのを楽しむ。わたしはわたしの絶望を楽しむ。いらだち、悲しみを楽しむ。こういうものがとてもどっさりある気晴らしであるかのように感じ、あらゆることにもかかわらず、わたしは生を愛する。わたしは生きつづけたい。これほど順応しているのに、わたしが死ぬようなことがあれば、残酷というものであろう。わたしは泣き、悲嘆し、同時に喜んでいる――いや、これでは正確ではない――これをどのように表現すればよいのか、わたしにはわからない。だが、生のあらゆることがわたしを喜ばせる。わたしはすべてが心地よいと思い、幸福を祈るさなか、惨めであることに自分が幸福であると気づく。これすべてに耐えているのはわたしではない――わたしの体は泣き叫ぶ――だが、わたしのうちなるわたしを超えたなにものかがこれらすべてを喜んでいる」[37]
[37] Journal de Marie Bashkirtseff, i. 67.
「彼のお好みの仕事は、ひとりで戸外をぶらついたり、ほっつき歩いたりして、草、木立、花、光のようす、移りゆく空模様を眺め、鳥たち、コオロギ、アオガエル、ありとあらゆる自然の音に聴き入ることのようだった」。
バック博士は「彼は,これらのことどもから通常人が受けるよりもはるかに大きな喜びを与えられていたのは明白であった」と続けます。
「この人物を知るまで、これらのものからこれほど多くの絶対的な幸福を得ることができる人がいるとは、わたしには思いも寄らなかった。彼は花をとても好んでいた。野生種であれ、栽培種であれ、あらゆる類いのものが好きだった。彼はライラックやヒマワリをバラとまったく同じように礼賛していたとわたしは思う。おそらく、実にウォルト・ホイットマンほど多くのものを好み、嫌いなものがほとんどなかった人はこれまでいなかった。あらゆる自然の対象は、彼にとって魅力をたたえていたようだった。見るもの、聞くものすべてが彼を喜ばせたようだった。(彼がだれそれを好きだというのは聞いていないが)彼は、見かけたあらゆる男、女、子どもが好きであるように見受けられた(わたしにはそのように信じられた)し、彼を知る人それぞれは、彼が彼または彼女が好きであるし、他の人たちのことも好きであると感じていた。わたしは彼が言い争ったり言い張ったりしたことがあるとは知っていないし、彼はお金についてしゃべったりしなかった。彼自身や彼の著作を酷評する人があると、時には楽しそうに、時にはきまじめに、いつもそれはもっともだといったし、わたしは彼が論敵の言い草を楽しみさえしているとしばしば考えた。わたしは、(彼を)初めて知ったとき、彼が自重しているのであり、いらだちや反感、不平や小言を漏らすのを自分の口に許さないのだと考えたものである。彼にはこういう精神状態がありえないとはわたしには思いも寄らないことだった。しかし、長期にわたる観察の結果、こういう感情の欠如、あるいは意識されないことが完全な実態であるとわたしは納得した。彼は、いかなる人の国籍も階級も、あるいは世界史のいかなる時代も、いかなる商売や職業も――いかなる動物や虫も、いかなる自然法則も、病気、不具、死といった、その結果でさえも――悪くいわなかった。天候、苦痛、病気、あるいはなんに対しても、彼は不平不満をいわなかった。彼は悪態をつかなかった。怒りに駆られて発言することはなかったし、怒ることなど明らかになかったので、悪態をつくこともなかった。恐怖を表すこともなかったし、彼がそれを感じたことがあるとはわたしは信じない」[38]
[38] R. M. Bucke: Cosmic consciousness, pp. 182-186, 要約。
[38] R. M. Bucke: Cosmic consciousness, pp. 182-186, 要約。
ウォルト・ホイットマンが文学において重要なのは、その著作からあらゆる萎縮の要素を組織的に排除しているからです。彼がみずからに表現を許した感情は、拡張の系列のものだけでした。しかも、それを、単に怪物めいて慢心した個人なら表明しかねないものとしてではなく、万人を代表する一人称で提示しているので、情熱と神秘に満ちた存在論的な感動が彼のことばにみなぎり、男たちと女たち、生と死、また森羅万象は神聖なる善であると読者を説得して終わるのです。
だから、今日、多くの人たちがウォルト・ホイットマンを永遠なる自然宗教の回復者とみなすまでになったのです。彼は、仲間たちに対する彼自身の愛をもって、彼と仲間たちとが生きているという彼自身の喜びをもって人びとを感化しました。彼を礼賛するための協会がじっさいに結成されました。その宣伝のために定期機関紙が発行され、その紙上で正統と異端の線引きがすでに始まっています。[39] 他の人たちが彼独特の作詩法をもちいて賛美歌を書いています。彼はキリスト教創始者とあからさまに比較されさえしており、その後者は必ずしも優位に位置づけられてはいません。
[39]ホレス・トラウベル〔Horace Traubel〕が編集し、フィラデルフィアにて月刊で発行されているThe Conservatorを指す。
ホイットマンはしばしば「異教徒」として語られています。今日、ときには、このことばは単に罪意識のない動物のような自然人を意味しています。ときには、独自の宗教意識を持つギリシャ人やローマ人を意味しています。どちらの意味であっても、このことばはこの詩人にふさわしいものではありません。彼は、善と悪の木の実を味わっていない単なる動物的人間以上の存在です。彼は、罪に対する彼の無関心さには、思い上がりの罪、屈折や萎縮からの自由に対する意識的な驕りの罪が存在していることにじゅうぶん気づいており、一つ目の意味における純粋な異教徒には、これは見受けられないものです。
「ぼくは身を翻して、動物たちとともに生きることができた
動物たちは、とても穏やかで自足している
ぼくは長ながと立ち止まり、動物たちを眺める
動物たちは労せず、自分の境遇をぐちらない
闇の中で眠りにつけずに自分の罪を嘆くこともない
不満をかこつものはいなく、所有欲に狂うものもいない
他者や何千年も前に生きた同族にひざまずかない
地上のどこにも高位のものも不幸なものもいない」[40]
動物たちは、とても穏やかで自足している
ぼくは長ながと立ち止まり、動物たちを眺める
動物たちは労せず、自分の境遇をぐちらない
闇の中で眠りにつけずに自分の罪を嘆くこともない
不満をかこつものはいなく、所有欲に狂うものもいない
他者や何千年も前に生きた同族にひざまずかない
地上のどこにも高位のものも不幸なものもいない」[40]
[40] Song of Myself, 32.
生まれながらの異教徒であれば、このよく知られた詩句は書けません。だが、その反面、ホイットマンはギリシャ人やローマ人以下でした。というのも、彼らの意識は、ホメロスの時代にあってさえ、この太陽が輝く世界の悲しい滅びの運命であふれんばかりであり、このような意識はウォルト・ホイットマンが断固として受け入れを拒むものでした。例えば、アキレウス〔Achilleus, ホメロスの叙事詩『イーリアス』の主人公〕は、プリアモス〔Priamos, トロイア最後の王〕の若き子息リュカオン〔Lycaon〕を殺そうとしたとき、その命乞いの声を聞いて手を止め、こう言います――
「ああ、友よ、君とても死なねばならぬ。なぜ君はこのように嘆くのか? パトロクロス〔Patroklos, アキレウスの竹馬の友〕も死んだが、彼は君よりもはるかに優れていた……わたしにも死と強制的な運命がのしかかっているのだ。朝か夕べか、あるいはある日の昼間か、打ち槍で、はたまた弓矢で、わたしの命をいずれかの男が奪うときがいたるのだ」[41]
そのうえで、残忍にもアキレウスは剣で哀れな少年の首を切り落とし、その足をつかんで、体をスカマンドロス川に投げ入れ、リュカオンの白い脂身を食らえと川魚に呼ばわるのです。ここで残忍さと哀れみがそれぞれに真実を鳴り響かせ、たがいに混じらず、介入していないのとまさしく同じように、ギリシャ人やローマ人は彼らのあらゆる悲しみと喜びとを混じりけのない完全なものとして保っていました。天性の善を、彼らは罪とみなしませんでした。彼らは、わたしたちの多くが主張するように、当座は悪と思えるものも「発達中の善」であるに違いないとか、同じような気の利いたことを主張して、宇宙の誉れを救いたいというような欲求も持ち合わせていませんでした。古代ギリシャ人にとって、善は善であり、悪はまさしく悪でした。彼らは、自然の悪を否定しませんでしたし――ウォルト・ホイットマンの「善と呼ばれるものは完全であり、悪と呼ばれるものもまさに同じく完全だ」という詩句は、彼らには単なる戯言に聞こえたことでしょう――そうした悪から逃れるために、悪と同様、悪気のない感覚的な善も存在しえない空想の“もうひとつの、よりよい世界”を発明しませんでした。この直感的反応の高潔さ、このあらゆる道徳上の詭弁とこじつけからの自由のおかげで、古代の異教感覚は哀愁に満ちた尊厳さを帯びています。そして、この美質は、ホイットマンのほとばしる言葉にはないものです。彼の楽観主義は恣意的にすぎ、傲慢にすぎます。彼の福音には、虚勢の気配と気取った捻りがあり[42]、そのために、楽観主義にじゅうぶん気を引かれ、重要な観点においてホイットマンは預言者の正統な系列に連なるとおおむね認めようとする多くの読者に対する影響力が削がれているのです。
[42] 「神はわたしを恐れる!」とは、それほど無敵な楽観主義の友人が、ある朝、格別に元気づき、人を食ってもかまわない気分になったとき、わたしの面前で吐いたことばである。このことばの傲慢さは、謙虚さにまつわるキリスト教的な教育がいまだに彼の胸にうごめいていることを示していた。
ところで、万事を見渡し、すべてよしと見る、こういう傾向に対して、健全な精神状態の名を与えるとしますと、健全な精神状態であるための方法を、より不随意のものとより随意の、またはより意図的なものとに区別しなければならないことに気づきます。不随意的な類いの場合、健全な精神状態は、万事について、ただちに愉快だとするありかたです。意図的な類いの場合、ものごとをよしと考えるにしても、抽象的なありかたになります。事物を考える抽象的な方法はすべて、ものごとのとりあえずの本質としてなんらかの一面を選び、他の側面を無視します。意図による健全な精神状態は、善を存在の本質的で普遍的な側面であると考え、故意に悪を視野から締め出します。このようにあけすけにいってしまいますと、知的に自己に対して誠実であり、事実に対して素直である人にとって、これはやってのけるのが困難な芸当であると思えるかもしれませんが、少しばかり内省してみますと、ことはあまりにも複雑であり、このような単純な批評では片付かないことがわかります。
そもそも、幸福感は、すべての他の感情と同じく、障害に対する本能的な自衛手段として、反証事実に対する無認識と無感覚を備えています。幸福感が現実にわがものであるとき、悪の思いが現実感をもちえませんし、それと同じく、欝になれば、善の思いは現実感をもちえません。理由はともかく、まことに幸福である人にとって、そのとき、その場で、悪はどうしても信じられません。彼は悪を無視するしかないのです。そのとき、傍観者の目には、その人は頑なに目を閉じ、悪を締めだしていると映ることでしょう。
だが、これだけではすみません。完全に包み隠しのない正直な精神にあっては、悪の締めだしが、意図的な宗教方針、あるいは先入観〔parti prisフランス語〕に育つかもしれません。わたしたちのいわゆる悪というものの多くは、もっぱら人間が現象を受け止めるありかたによって決まります。悪は、受難者の内的態度が恐れから戦いに変わるだけで、実に多くの場合、心を引き締め、元気づける善に転化します。悪の痛みを避けようと空しくあがいたあと、見かたを変え、朗らかに耐え、最初には自分の平安を乱すと思えた事実をよくよく見れば、人間にとって後生大事なのは名誉だけなので、こういう逃げ道もあったと思いなおすとき、実に多くの場合、その傷みは消え去り、楽しみに転化します。悪を認めるのを拒むのです。悪の力を軽んじるのです。悪の存在を無視するのです。注意を他に向けるのです。そうすれば、事実はやはり存在するとしても、とにかくみなさんご自身に関するかぎり、悪の性格はもはや存在しません。ものごとの善悪を決めるのは、みなさんご自身の考えかたですので、支配するのはみなさんの思いであり、これがみなさんの一大関心事であるとわかります。
このようにして、精神のありかたを楽観的な考えかたに切り替えるように意欲的に図りますと、哲学への入口が開きます。いったん入ってしまえば、越境の正当性を問うのは難しくなります。幸福を求める人間の本能が、無視による自己防衛を決意し、都合よく働くだけにとどまらず、より高い内面的な理念が、いうべき重みのあることばを持つようになります。不幸ぶった態度は、痛ましいだけでなく、卑しく醜いのです。いかなる外部の悪のせいであるにしろ、嘆き暮らしたり、泣き言いったり、塞ぎこんだりする気分ほどに、下劣で無価値なものはあるでしょうか? これほど傍迷惑なものはあるでしょうか? 困難克服法としてこれほど無益なものはあるでしょうか? これでは、その原因となった悩みを固定し、永続化して、事態全体を悪化させるだけです。だから、いかなる犠牲を払っても、この気分の影響を緩和しなければなりません。わたしたち自身や他の人たちのこういう気分をはねつけて、断じて我慢していないことです。だが、客観の領域でこころを尽くして明るい面を強調し、同時に暗い面を抑えないことには、主観の領域でこの修練を続けるのは不可能です。だから、悲惨さに溺れてはならないという決意は、心中のわりあい瑣末なことがらから始めて、現実の枠組み全体を要求にかなうほど楽観的な概念体系に組みこむようになるまで途絶えることはないでしょう。
だからといって、ものごとの枠組み全体が無条件に善でなければならないというような神秘的洞察、あるいは宗旨について、わたしがなにか語っているわけではありません。このような神秘的な信条は、宗教意識の歴史において、とてつもない役割を担っていますので、後ほどいくらか念入りに検討しなければなりません。だが、現時点でこれ以上言及する必要はありません。目下の講義では、もっと平凡で非神秘的な歓喜の状態でじゅうぶんです。侵略的な精神状態や熱烈な意気込みはすべて、ある方向の悪に対して人間を無感覚にします。愛国者に対して平時の刑罰は抑止力を失いますし、恋人たちに対して世間の分別は馬の耳に念仏です。熱情が極端であれば、理想の大義のためにこうむる苦難は実質的に誉れになり、死は牙を失い、墓場は勝利を逸します。このような状態において、普通の善悪の対比はもっと高い序列のなかに吸収され、全能の興奮が悪を飲みこみ、これを人間は人生の無上の体験として歓迎します。これこそ真に生きるということだ、わたしは英雄になる機縁と冒険に歓喜する、とその人は言います。
ですから、宗教的態度としての健全な精神状態を計画的に育てることは、人間性の重要な傾向と合致していますし、なんら理不尽なことではありません。じっさい、たてまえ上の神学が一貫して禁じている場合ですら、わたしたちみな、多かれ少なかれこれを育んでいるのです。わたしたちはできるだけ病と死から目をそらします。わたしたちの生活基盤である果てしない修羅場や猥褻行為は視界から隠され、言及されることがありませんので、書物や社会で公認された世界は、現実の世界よりもはるかに立派で清潔、善良な、詩情のあるフィクションになっています。[43]
[43] 「この人生を過ごすにつれ、日ごとにますますわたしは迷子になる。わたしは、この世界、生殖、遺伝、見るもの聞くものに慣れることができず、ごく普通のものごとが重荷である。とりすました消毒済みの上品な生活の表面と、下品で浮かれた――あるいは騒ぎ狂った――広大な基盤とは、たいした見ものになっていて、わたしにはとても慣れ親しめない」
――ロバート・ルイス・スティーブンソン〔Robert Louis Balfour Stevenson(1850-94)英国の作家。『宝島』『ジギル博士とハイド氏』〕Letters, ii. 355
――ロバート・ルイス・スティーブンソン〔Robert Louis Balfour Stevenson(1850-94)英国の作家。『宝島』『ジギル博士とハイド氏』〕Letters, ii. 355
過去五〇年間、いわゆる自由主義がキリスト教界で進展したのは、どうやら古い地獄の業火神学が仲よく手を結んでいた陰鬱な気風に対する教会内の健全な精神状態の勝利といってもよさそうです。いまではどこの信徒会でも、説教師たちが罪意識をあおるどころか、それを軽んじることに献身しています。彼らは永遠の罰を無視し、あるいは否定し、人間の堕落よりも尊厳を主張します。古い流儀のキリスト教徒が相も変わらず引きずっている、みずからの魂の救済にまつわる先入見を、病的でほめられたものではなく、非難されるべきものと見ています。自信に満ちた“筋肉質”的な態度は、われらがご先祖なら、まちがいなしの異教的な物腰と見たでしょうが、このような説教師たちの目には、キリスト教徒的性格の理想的な要素に映ります。わたしは、これが正しいかどうかを問題にしているのではなく、変化を指摘しているだけです。
わたしの言及する人たちは、神学の悲観主義的な要素を捨てているにもかかわらず、たいていキリスト教との名目的な関係を維持しています。しかし、一世紀にわたり勢いを得て、過去二五年のあいだに急速に欧米を席巻した、あの“進化学説”のうちに、わたしたちは新しい種類の自然宗教の素地を見るのであり、わたしたちの世代の多数派の思想において、これがキリスト教と完全に置き換わっているのです。普遍的な進化という発想は、一般的な改善と進歩を唱える信条にうってつけであり、健全な精神の人たちの宗教欲求にとてもよく適合していますので、まるでその人たちのご用達品として開発されたかのようです。ですから、科学教育を受けたり、一般向け科学記事を読むのが好きだったりし、伝統的なキリスト教の説教の厳格で不合理であると思える部分に内心あきたらない、大勢のわが同世代人によって、“進化論”はこのように楽観的に解釈され、生まれたときからの宗教に替わるものとして受け入れられているのをわたしたちは目にしています。百聞は一見にしかずといいますので、一例として、スターバック教授が回覧したアンケートの回答を引用してみましょう。回答者の精神状態は、それがものごとの本質全般に対するその人の反応でもあり、系統的かつ内省的でもあり、またある種の内面的な理想に忠実にみずからを縛るものでもありますから、礼儀として宗教といってもよいでしょう。みなさんも、その人に、荒削りで傷つくことを知らない精神、とても身近な同時代人タイプを認められるものとわたしは思います。
問:あなたにとって、宗教はなにを意味しますか?
答:なんの意味もありませんし、それにわたしが見るかぎり、他の人たちにも役立たないようです。わたしは六七歳であり、五〇年間、何某に居住し、四五年間、実業界で働いてきましたので、人生や男たち、また何人かの女たちについて、いささか経験がありますが、最も宗教的で信心深い人たちが、一般的に実直さと道徳性に最も欠ける連中であると気づいています。教会に通わず、あるいは宗教的信念をなにももたないのが、最良の人たちなのです。祈ること、賛美歌を歌うこと、説教することは――自分自身を頼るべきときに、なんらかの超自然的な力に頼るように吹き込みますので――有害です。わたしはまったく神を信じません。神の概念は、無知、恐怖、そして自然に関する知識の全般的な欠如から生じているのです。心身ともに年齢の割には健全なわたしですが、いま死ぬとしたら、音楽かスポーツ、あるいは他の分別ある娯楽を心から楽しみながら、そう、むしろ、喜んで死にたいものです。時計が止まれば、われわれは死ぬ――いずれにせよ、不滅などありはしません。
問:神、天国、天使などといったことばから、なにを連想しますか?
答:まったくなにも。わたしは無宗教の人間です。こういうことばは、ずいぶんたわけた作り話です。
問:あなたは天恵と思える経験をなされたことがありますか?
答:まったくありません。指揮監督する類いの神意はありえません。賢明な観察眼と科学法則の知識を少しばかり働かせれば、だれでもこの事実に納得します。
問:どんなものが、あなたの感情に最も強く働きかけますか?
答:生き生きした歌や音楽です。オラトリオ〔聖書に題材をとった音楽劇〕ではなく、『ピナフォア』〔H.M.S. Pinafore喜歌劇『女王陛下の軍艦ピナフォア――水兵に恋した娘』〕が好みです。わたしは、スコット〔Sir Walter Scott (1771-1832) スコットランドの詩人・作家〕、バイロン〔George Gordon Byron, sixth Baron(1788-1824)英国のロマン派詩人〕、ロングフェロー〔Henry Wadsworth Longfellow (1807-82) 米国の詩人〕など、とりわけシェイクスピアが好きです。歌では、『星条旗』『アメリカ』『ラ‐マルセイエーズ』、それにあらゆる道徳的で魂をゆさぶる歌曲が好きですが、気の抜けた賛美歌はいただけません。わたしは、自然、とりわけ晴天を大いに楽しみ、何年か前まで日曜日に田舎にでかけ、しばしば一二マイル歩いて、疲れを知りませんでした。自転車では四〇マイルか五〇マイル走りました。いまはもう自転車はやっていません。わたしは教会へは決して行きませんが、よい講演があれば、出かけます。疑いや恐れをもたずに、あるがままにものごとを見ますし、わたしの環境に合わせようと努めますので、わたしの考えや計画は健全で愉快な類いのものです。これこそが最も深遠な法則であるとわたしは考えます。人間は進化する動物です。一千年後には、人間は現状に比べて長足の進歩を遂げていると考え、わたしは満足を覚えます。
問:罪について、あなたはどのようにお考えですか?
答:罪とは、人間がまだじゅうぶん発達していない場合にたまたま見られる状態、病であるとわたしには思えます。これを気に病めば、病状を悪化させます。いまから百万年もたてば、公平と公正、心身の健康が確立、組織化されて、だれも悪や罪を知らなくなるとわれわれは考えるべきです。
問:あなたはどのような気質ですか?
答:心身ともに壮健で活動的、抜け目がありません。自然がわれわれを否応なく眠らせるのを残念に思っています。
わたしたちが、破れ、悔いるこころを探し求めているなら、とうぜん、このご同輩に目を向ける必要はないでしょう。有限なもので満足する気性がこの人をまるでロブスターの殻のようにすっぽり包みこみ、はるかに離れた無限なるものからやってくるあらゆる病的な不平不満を遮断しています。わたしたちの目にこの人は通俗科学に力づけられた楽観主義の好例に映ります。
わたしの考えでは、自然科学から健全な精神状態に向かう思潮よりも、宗教的にはるかに重要で興味深い思潮は、近ごろアメリカを席巻し――大英帝国でどのような足場をすでに築いているか、わたしは存じませんが――日ごとに勢力を増しているものであり、わたしはこれを短く言い表すために「精神療法運動」と命名しようと思います。この運動が用いている自称のひとつを借用するなら、この「新思想」にはさまざまな分派があるのですが、共通合意点が絶大ですので、目下の目的のためには、小異は無視してもかまわないでしょうから、わたしは断りもなく、この運動をあたかも単一のものであるかのように扱うつもりでいます。
これは、人生を意図的に楽観視する企てであり、理論と実践の両面を備えています。これがこれまでの四半世紀にしだいに発展するにつれ、役に立つ一連の要素を取り入れ、いまでは本物の一宗教勢力とみなされるべきものになっています。たとえば、パンフレット類の需要がとても大きく、際物が機械的に市場生産され、一定部数が出版業者の手で供給される――わたしが想像するに、これはある宗教が不安定な草創期をくぐりぬけるまで決して見られない現象――そういう段階に達しています。
精神療法が掲げる教義の出所のひとつは、四福音書です。もうひとつは、エマソン主義、すなわちニューイングランド超越論哲学。もうひとつは、「理法」と「進歩」と「発達」のメッセージを掲げる心霊主義。もうひとつは、わたしが先ほど言及した、楽観主義的な通俗科学の進化論。最後にヒンズー教が風味を加えています。だが、いちばん顕著な呼び物は、もっと直接的な霊感です。この信念の指導者たちは、健全な精神の姿勢そのものがもつ全能の救済力、勇気や希望、信頼がもつ克服力を直感的に信じ、それに伴って、疑いや恐れ、気苦労、その他すべての不安だらけな取り越し苦労の精神状態を見下しています。[44] 概して、彼らの信条は教え子たちの実践体験によって補強されています。そして今日では、この体験例が大量に蓄積されているのです。
[44] 『子どもを戒めるお話し』〔Cautionary Verses for Children〕、一九世紀初めに出版され、多用された著作物のこの表題は、英国福音派プロテスタント教会の詩神が、危険の思いにこだわるあまり、ついには当初の福音の伝える自由からはるか遠くまで漂流してしまったことを示している。精神療法は、簡単に言えば、今世紀初期、英米の福音派集団において眼に余った慢性不安の宗教に対する反動だったといってもよいだろう。
目の見えない人が見え、足のなえた人が歩けるようになりました。終生の病人が健康を回復しました。精神的な果実もそれに劣らず並外れていました。健全な精神など思いもよらなかった人たちでも、意図的に健全な精神にのっとった態度を選ぶのは可能であることがわかりました。性格の刷新が大規模に実現しました。無数の家庭で一家団欒が戻ってきました。これの間接的な影響は絶大です。精神療法の原理が空中に充満しはじめましたので、その精神が人づてに届くほどです。「リラクセーションの福音」とか「心配無用運動」といったのやら、朝の着替え中に、今日一日のモットーとして「若さ、健康、元気!」と繰り返し唱えている声が聞こえてきます。多くの家庭で天候についての愚痴は禁句になりつつあります。世を騒がせるだけの不愉快な事件について話したり、日ごろの不便や慢性的な軽い病気を大げさにしたりするのは無作法であるとますます多くの人びとが考えるようになっています。このような元気づけの効果を世情全般にもたらしていますので、もっとめざましい結果がないとしても、それはそれでけっこうなことでしょう。だが、めざましい結果もたくさんありますので、数えきれない失敗例や自己欺瞞の例が紛れこんでいても(万事、人的ミスは当然であり)、大目に見てもかまわないほどですし、学問を積んだ知性なら、ほとんど読むに耐えないような楽観論で気がふれたものや雲をつかむような表現のものなど、おびただしい数の精神療法文献の饒舌にも目をつむっていることができます。
役に立つ成果があるから運動が拡大したのは、いぜんとして偽りのない事実ですし、これが、つまり体系的な人生哲学に対するアメリカ人の議論の余地なく独創的な寄与が、具体的な治療理論とこれほど深く結びつくという事実ほどに、アメリカ人の極めて実際的な気質を証明するものはなかったでしょう。精神療法の重要性について、米国の医療や宗教界の専門家らが、さかんに抵抗したり難癖をつけたりしながらも、目を開きはじめています。これは、理論的にも実践的にも、疑いなくさらにもっと発展するはずですし、それに与する最近の著述家たちは並外れて有能な集団なのです。[45] 祈ることのできない人たちの群れがいろいろあるように、精神療法家の理念に万が一にも左右されない群れがもっといろいろありますが、それはまったく問題ではありません。わたしたちの目下の目的にとって、重要な点は、感化されうる人たちがこれほどたくさんいるという事実です。彼らは、関心を払って研究すべき精神類型を形成しています。[46]
[45] ホレイショ・W・ドレッサー〔Horatio W. Dresser(1866-1945)新思想運動指導者〕、ヘンリー・ウッド〔Henry Wood〕両氏、とりわけ前者を指す。ドレッサー氏の著作はG. P. Putnam’s Sons, New York and Londonから、ウッド氏のはLee & Shepard Bostonから出版されている。
[46] わたし自身の証言では怪しまれるかもしれないので、別の報告、the American Journal of Psychology for 1899 (vol. x.)〔『アメリカ心理学会誌』1899年版〕で公表された、クラーク大学のH・H・ゴダード博士〔Henry Herbert Goddard(1866-1957)心理学・優生学者〕による論文『信仰療法が明かす身体に対する精神の影響』〔the Effects of Mind on Body as evidenced by Faith Cures〕をあげておく。この判定者は、広範な事例研究の結果、精神療法による回復は事例が存在するが、現在の医療で公認されている暗示療法といかなる点でも変わらないと結論している。当論文の末尾(再版p. 67)に、暗示が作用するメカニズムに関する興味深い心理学的考察が見受けられる。精神療法の一般現象そのものについて、ゴダード博士は次のように書いている――
「筆者は治療報告に厳しい批判をくだしたが、それでもなお、精神が疾病におよぼす強力な影響を示す資料が非常に数多く残る。症例の多くは、わが国屈指の名医たちが診断・治療にあたったり、有名病院が治療を試みたりしても成功しなかったものである。教養・学識のある人びとが、この手法で治療を受けて、成果をえている。積年の症状が改善し、治癒さえしている……筆者は、未開民族医術、現代の民間療法、専売特許医薬および呪術を調査して、心理的要素を探索した。こうした手法が病気治療に無効であれば、その存在が説明不可能であること、また、有効であれば、その効力は心理的要素にあることを筆者は確信している。同様の論法が、精神医療学の現代版――神聖療法およびクリスチャン・サイエンス――についても適用できる。すべてが妄想であるとすれば、知的な人びとが精神科学者という固有の名称で知られる大集団を構成して、それが存続するなどとはとても考えられない。それは一日かぎりのものではなく、少数の人間に限られたものではなく、局地的なものではない。確かに多くの失敗例が記録されているが、それは議論に拍車をかけるだけである。失敗例を埋め合わせる多くのめざましい成功例があるはずであり、そうでなければ、失敗例が妄想を葬ったはずである……クリスチャン・サイエンス、神聖療法、あるいは精神科学は、あらゆる疾病を治療するものではなく、また、ものごとの本質そのものからして治療できるものではない。それでもなお、最も広い意味での精神科学も一般原理を実地に応用すれば、病気の予防に役立つだろう……心の姿勢を適切に正すことによって、正規の医師が匙を投げるような病気の患者の多くが救われると確信するに足るじゅうぶんな証拠が見受けられる。医療の総力をあげても救命できない犠牲者の多くの死期を遅らせることさえでき、正しい人生哲学を誠実に守るならば、多くの人びとが健康を維持できるし、医師の側では、予防できない病気の緩和に専心する時間ができるだろう」(再版p. 33, 34)
「筆者は治療報告に厳しい批判をくだしたが、それでもなお、精神が疾病におよぼす強力な影響を示す資料が非常に数多く残る。症例の多くは、わが国屈指の名医たちが診断・治療にあたったり、有名病院が治療を試みたりしても成功しなかったものである。教養・学識のある人びとが、この手法で治療を受けて、成果をえている。積年の症状が改善し、治癒さえしている……筆者は、未開民族医術、現代の民間療法、専売特許医薬および呪術を調査して、心理的要素を探索した。こうした手法が病気治療に無効であれば、その存在が説明不可能であること、また、有効であれば、その効力は心理的要素にあることを筆者は確信している。同様の論法が、精神医療学の現代版――神聖療法およびクリスチャン・サイエンス――についても適用できる。すべてが妄想であるとすれば、知的な人びとが精神科学者という固有の名称で知られる大集団を構成して、それが存続するなどとはとても考えられない。それは一日かぎりのものではなく、少数の人間に限られたものではなく、局地的なものではない。確かに多くの失敗例が記録されているが、それは議論に拍車をかけるだけである。失敗例を埋め合わせる多くのめざましい成功例があるはずであり、そうでなければ、失敗例が妄想を葬ったはずである……クリスチャン・サイエンス、神聖療法、あるいは精神科学は、あらゆる疾病を治療するものではなく、また、ものごとの本質そのものからして治療できるものではない。それでもなお、最も広い意味での精神科学も一般原理を実地に応用すれば、病気の予防に役立つだろう……心の姿勢を適切に正すことによって、正規の医師が匙を投げるような病気の患者の多くが救われると確信するに足るじゅうぶんな証拠が見受けられる。医療の総力をあげても救命できない犠牲者の多くの死期を遅らせることさえでき、正しい人生哲学を誠実に守るならば、多くの人びとが健康を維持できるし、医師の側では、予防できない病気の緩和に専心する時間ができるだろう」(再版p. 33, 34)
では、これから彼らの信条をもう少し詳しく検討してみましょう。それを支える大黒柱は、あらゆる信仰体験に共通する根拠、すなわち、人間は二重の性質をもち、思考の二つの領域、底の浅い領域と奥の深い領域に接していて、そのどちらか一方の領域で生きかたを学ぶのを習慣化するという事実にほかなりません。底が浅く、低次の領域は、肉欲的感覚、本能や欲望、利己主義や疑い、低次の個人的利害のそれです。だが、キリスト教神学では、偏屈心が人間性のこの部分にある基本的な悪であると常に考えてきたのに対して、精神療法家たちは、この部分に見られる邪悪のしるしは恐怖心であるといっているのであり、だからこそ、彼らの信念はあのような完全に新しい宗教の性格を帯びているのです。
この流れをくむ著述家の書いたものを引用すれば――
「恐怖は、進化の過程で役立ってきたのであり、ほとんどの動物の先見思考の全体を成しているようである。だが、それが人間の文明生活において心的素質のなんらかの部分として残っているのは不合理である。わたしは、義務と魅力とを自然な動機とする彼ら文明化された人びとにとって、先見思考に占める恐怖の要素は、力づけるものではなく、落ちこませ、邪魔するものであると理解している。恐怖は、不必要になったとたんに紛れもない抑止要因になるのであって、死んだ皮膚が生体組織から剥落する例にならい、完全に除去されるべきである。恐怖の分析および恐怖の発現抑止に役立てるために、わたしは、先見思考の無益な要素を表すものとして、恐怖思考という言葉を造語し、『気苦労』ということばを、先見思考と対立する恐怖思考と定義した。わたしはまた、恐怖思考を劣等性の自己投影または自己許容暗示と定義し、それが真に所属する場、有害で不必要、したがってまともでないものの範疇に位置づけられるようにした」[47]
[47] ホラス・フレッチャー〔Horace Fletcher(1849-1919)米国の健康食品研究家〕: Happiness as found in Forethought Minus Fearthought, Menticulture Series, ii. Chicago and New York , Stone. 1897, pp. 21-25, 要約。
一般にはびこった“恐怖思考”から生じる“泣き癖”や“嘆き節”は、精神療法著述家たちから次のように痛烈に批判されています――
「われわれの生れ落ちたときからの人生の習性について少し考えてみよう。ある種の社会的しきたりや慣習、いわゆる要請があり、神学上の偏向、一般的な世界観がある。人生における幼児期の躾、教育、結婚、職業に関して、保守的な観念がある。このすぐあとに長い人生のさまざまな心配事が続き、やれ、小児病にかかるかもしれないとか、中年期、老年期の病気にかかるかもしれないと気苦労が絶えない。歳をとって、能力を失い、子どものようになるなどと考える。あげくの果て、最大のものは死の恐怖である。さらに、悲嘆や予期される悩みごとの長いリスト、例えば、特定の品目の食品に関連した観念、東風の恐れ、高温気象の恐れ、低温気象の痛みと悩み、通風口の前に座って、風邪をひくのではないか、八月一四日の昼日中に枯草熱にかかるのではないかという恐れなどなどがあり、われわれが呪文を唱えて呼び出すのを、わが同胞、とりわけ医者たちが進んで手助けする恐怖、不安、心配、懸念、予感、予想、悲観、病的性格、その他の宿命の姿をした幽霊の行列があり、ブラッドリー〔Francis Herbert Bradley(1846-1924)英国の観念論哲学者〕の『血の通わぬ係累のこの世のものならない舞踏劇』と比べるに値する陣営がある。
「だが、これですべてではない。この巨大な陣営は、日常生活から数かぎりない志願兵――事故の恐れ、災害の可能性、財産の喪失、強盗にあう見込み、火災、あるいは戦争の勃発――が加わって膨れあがる。わが身を心配するだけでは事足りない。友人が病気にかかると、恐怖に駆られて最悪を予想し、死を思わずにはいられない。不幸に出会えば……同情は、苦難に入りこみ、大きくしてしまうことに他ならない」[48]
[48] H. W. Dresser: Voices of Freedom, New York , 1899, p. 38
もうひとりの著述家が書いたものを引用してみましょう――
「人は、外部世界に参加する前に、しばしば恐怖をみずからに刻印してしまっている。彼は恐怖のうちに育てられる。全生涯が病気と死の恐怖にとらわれてすごされ、そのため、彼の精神構造全体が束縛され、制限され、抑圧されて、彼の体は萎縮したこころの模様と特性に引きずられる……このような永久に続く悪夢の支配下にあったわれわれの祖先のうちの、何百万もの傷つきやすい敏感な魂を思ってもみよ! いやしくも健康が存在するのは、驚くことではないのか? そのような病的想念の海をいささかなりとも中和しうるものは、たとえわれわれが意識しなくとも、注ぎこまれる無限の神の愛、生命力、活気にほかならない」[49]
[49] Henry Wood: Ideal Suggestion through Mental Photography. Boston , 1899, p. 54.
精神療法の信奉者たちはキリスト教の述語を多用していますが、このような引用文に接すれば、彼らの人間の堕落に関する概念が普通のキリスト教徒の考えとどれほど大きく異なっているか、おわかりになるでしょう。[50]
[50] それがキリスト自身の考えと大きく違っているかどうかは、聖書解釈学者の決めるべきことである。ハルナック〔Adolf von Harnack(1851-1930)ドイツの自由主義神学者〕によれば、イエスは、悪と病について精神療法家たちとほぼ同じように考えていた。「イエスがバプテスマのヨハネに送った答は、どのようなものだったか?」とハルコックは問い、次のように言う。「それは『目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』〔マルコによる福音書11-5〕というものだった。それが『神の国の到来』であり、あるいはむしろ、すでにこれらの救済の働きのなかに神の国は現れている。苦痛の、欠乏の、病の克服と除去によって、これらの実際の結果によって、ヨハネは新しい時が到来したことを知ることになる。悪魔を追い払うことは、この救済の働きの一部にすぎないが、イエスは、それが彼の使命の意味であり、しるしであると告げている。だから、彼は、惨めな人、病んだ人、貧しい人に語りかけたのであるが、それも道徳家としてではなく、いささかの感傷も見せなかった。彼は、病気の等級づけや分類をせず、病人が治療に『値するか?』と質問して時間を費やさなかった。痛みや死に同情するということも、彼にはなかった。彼は、病気は有益な刑罰であるとか、悪には健全な使い道があるとか、どこにもいっていない。否、彼は、病気は病気、健康は健康という。すべての悪、すべての不幸は、彼にとって恐ろしいものだった。それは魔王の国に属するものだった。だが、彼はわが身のうちに救済者の力を感じていた。弱さが克服され、病が快癒したときのみ、前進が可能になると彼は知っていた」
――Das Wesen des Christenthums, 1900, p. 39.
――Das Wesen des Christenthums, 1900, p. 39.
人間のより高い本質に関する彼らの考えは明らかに汎神論的なものであって、それほどかけ離れていないとはとてもいえません。精神療法哲学における人間の霊性は、部分的には意識的ですが、主として無意識的なもののように思えます。そして、それの無意識的な部分を通して、わたしたちは、天恵の奇跡だとか、新しい内なる人間の突発的な創造だとかに頼らず、すでに神とひとつになっています。この見解はさまざまな著述家によってさまざまに表明されていますので、そこに、キリスト教神秘主義、超越理想主義、ヴェーダンタ哲学、現代の潜在自我心理学の影響が見受けられます。次のような文をひとつかふたつ引用すれば、見解の核心を知ることができるでしょう――
「宇宙の大いなる中核的事実とは、あの無限の命と力の霊であり、それが万物の背後にあり、万物のなかに、また万物をとおしてみずからを顕現する。万物の背後にある、この無限の命と力の霊は、わたしが神と呼ぶものである。あなたが慈悲の光、天帝、大霊、全能の神、その他なんでも、いちばん使い勝手のよいことばを使っても、大いなる中核的実在に関して一致できるなら、わたしは一向にかまわない。だから、神のみが宇宙を満たしているので、万物は神から来て、神のうちにあり、外にはなにもない。神はわたしたちの命の命であり、わたしたちの命そのものである。わたしたちは神の命を分かち与えられた者である。わたしたちが個別化された霊であり、神が、わたしたちとその他のありとあらゆるものを含む無限の霊であるという点で、わたしたちは神と違っているが、それでも本質において、神の命と人間の命とはまったく同じであり、だからひとつである。それらは、本質、あるいは特性においては違わない。程度において違っている。
「人間の命の大いなる中核的事実とは、この無限の命とわたしたちとが一体であるとする意識的で活気のある理解にいたることであり、この神性の流入に対して完全にわたしたち自身を開くことである。わたしたちが無限の命とのわたしたちの一体性という意識的な理解にいたり、この神性の流入に対してわたしたち自身を開く、まさしくその程度に応じて、わたしたちはみずからを無限の知性と力が働ける経路にする。あなたがあなたと無限の命との一体性を理解する、まさしくその程度に応じて、あなたは、不安を安心に、不和を調和に、苦しみと痛みとを豊穣な健康と強さに変えることになる。わたしたち自身の神性を認識すれば、また絶対者とのわたしたちの親密な関係を認識すれば、わたしたちの機械のベルトを絶対者の原動力につなぐことになる。選んだのでないかぎり、地獄にとどまる必要はない。わたしたち自身が選ぶ、どのような天国にもわたしたちは登っていける。わたしたちが登ることを選択すれば、宇宙のより高い力がすべて結集して、天国へ向かうわたしたちを助けてくれる」[51]
[51] R・W・トライン〔Ralph Woldo Trine(1866-1958)新思想運動著述家〕: In Tune with the Infinite, 26th thousand, N.Y. 1899. 引用文は、あちこちの文章をつなぎ合わせたもの。
ここで、これら抽象的な記述から精神療法教にまつわる体験の具体的な供述に移ることにします。わたしは文通による回答を数多く受け取っています――やっかいなのは、選ぶことだけです。最初に引用する二通は、わたしの個人的な友人たちからのものです。そのうちのひとり、ある女性は、次のように書いて、すべての精神療法信奉者たちが霊感の源とする無限の力との密接なつながりの感覚をうまく表現しています――
「あらゆる病気、弱点、あるいは抑鬱の背後にある第一原因は、わたしたちが神と呼ぶ聖なるエネルギーから切り離されているという人間の感覚です。ナザレ人が『わたしと父とは一つである』〔ヨハネによる福音書10-30〕といったのと同じように感じ、穏やかだが、喜びにあふれた信頼をもって断言することができる魂には、もはや療法家も療法も必要ありません。これはごく簡潔な真実そのものであり、この不動の神聖な一体性という事実のほかに、全体性の基礎を据えることができる人はいません。病気は、この岩の上に足を据えた人、時々刻々、瞬間ごとに神の息吹の流入を感じる人をもはや襲うことができません。全能の神とひとつであれば、どうして疲れが意識に入りこめるのでしょうか? どうして病気があの不屈の命を襲えるのでしょうか?
「この疲労の法則を永久に破棄する可能性は、わたし自身の例によってじゅうぶん証明されています。わたしの人生の初期は、脊椎と下肢の麻痺にともなって、何年にも何年にもわたる寝たきりの長患いの記録で塗りこめられています。わたしの思いは、現在の思い以上に不純なものではありませんでしたが、病気は宿命であると固く信じこみ、無知なままでした。しかし、肉体が回復したあと、わたしは療法家として一四年間にわたり休暇もとらずに絶えまなく働き、度を過ぎた弱さ、病気、ありとあらゆる疾患と常に接触しているにもかかわらず、一瞬たりとも疲労や苦痛を知らなかったと誠実に断言することができます。神の意識のある一部分が、どうして病気になることができるのでしょうか?――なぜなら『わたしたちとともにいますお方は、わたしたちに敵対できるすべてのものたちよりも偉大なのです』から」
わたしの二番目の文通相手はやはり女性であり、次のような供述を寄せてくれました――
「一時期のわたしには、生きることが難事に思えました。常にこころがなえ、いわゆる神経衰弱に何度か襲われ、それに不眠がともない、精神障害の瀬戸際に追い詰められました。他にも数多くの障害があったのですが、消化器官の障害が格別でした。わたしは家から送り出され、医者たちの手にゆだねられ、ありとあらゆる薬物を摂取し、仕事を全部やめ、うんと食べさせられ、手の届く範囲の医者たち全員とほんとうの知り合いになりました。だけど、この新思想がわたしを虜にするまで、回復しても長続きすることはありませんでした。
「わたしにいちばん印象深かったひとつのことは、万物を満たしていて、わたしたちが神と呼ぶ、あの命の本質との確実に絶えることのない関係、あるいは精神的接触(わたしにとって、この言葉はとても表現力があります)をわたしたちが保っていなければならないという事実を学んだことだと思います。わたしたちがじっさいに自分の内部にそれを求め、生きること、つまり、外部で、光、暖かさ、活力を求めて、太陽に向かうのとまさしく同じように、内部からの啓発を求めて、わたしたちの真の自己、あるいはわたしたちの内なる神という、奥底の極みに秘められた、最も深い意識に常に向かうこと、これなしには、この事実はほとんど認識不可能なことです。あなたのなかにある光へと内部に向かうことは、神の臨在のうちに、あるいはあなたの神聖な自己のうちに生きることだと理解して、あなたが意識的に実行すれば、これまであなたが向かい、あなたを夢中にさせていた外部の対象は非現実的なものであると、あなたはたちまち悟るでしょう。
「わたしは、この態度がいわゆる体の健康にとってもつ意味を軽んじるようになりました。なぜなら、体の健康は、前述したような一般的なこころの態度とは別に、偶然の結果としておのずから実現するものであり、なにか特別な精神的行為をしたり、それが欲しいと願ったりしても、見つかるものではないからです。わたしたちがたいてい人生の目標にしているもの、わたしたちみながあれほど狂おしく求めている外部的なもの、わたしたちがたいてい生死をかけているもの、だが、わたしたちに平安と幸福を与えてくれないもの、これらのものは、付属品として、また精神の内部深くに潜む、はるかに高い命の単なる産物、または当然の結果として、ひとりでに生じるはずです。この人生は、神の国を求める現実の探求、わたしたちのこころに神の大権を迎えたいという念願であり、だからこそ、他のものはみな『加えて与えられる』〔マタイによる福音書6-33〕みたいに――たぶん、まったく偶然に思いがけないものとして――生じるのです。それでもなお、それは、わたしたちの存在のまさしく中心にある平静さという現実を証明しています。
「わたしたちは、一般に、そもそも実現のために力を尽くすべきでないものを人生の目標にするとわたしはいいますが、それは、実業界での成功、作家やアーティスト、医者や法律家としての名声、あるいは慈善事業による名誉といった、世間が賞賛に値し天晴れであると認める多くのものごとを指しています。そのようなものは、結果であるべきであり、目標ではありません。わたしはまた、当面は無害でよいものと思われ、多くの人たちが受け入れているからと追求されている多種多様な楽しみをもこれに含めます――つまり、さまざまに移ろう慣習や社交、流行のことであり、これらはたいてい大衆に認められていますが、現実に根ざさず、不健全なぜいたくですらあるのです」
ここにもうひとつの事例があって、これはもっと具体的であり、やはり女性のものです。これらの事例をみなさんに読み聞かせるさい、コメントは差し控えます――わたしたちの研究対象である精神状態がいかに多様なものであるか、これらの事例が語ります――
「わたしは幼いころから四〇歳になるまで病人でした。(病状が詳しく書かれていますが、割愛します) 転地の効用を願って、数か月にわたりバーモントに滞在していたとき、着実に弱っていきましたが、一〇月後半のある日の昼下がりに休んでいますと、突然、『あなたは癒され、夢にも思わなかった働きをすることになる』という声が聞こえました。このことばは、とてもインパクトのある印象をわたしのこころに刻みましたので、わたしはすぐさま、神さまだけがこのことばを示せるのだわ、といいました。いつものわたし、そしてわたしの苦しみと虚弱さは、ボストンに戻ったクリスマスまで続きましたが、それにもかかわらず、わたしはそのことばを信じていました。二日もたたないうちに、若い友人がわたしを精神療法家のところへ連れていってあげようとすすめてくれました(一八八一年一月七日のことです)。療法家はこうおっしゃいました。『こころのほか、なにも存在しません。わたしたちはひとつのこころの表れなのです。体はこの世の信条であるにすぎません。人は、考えたとおりのものになります』 わたしは、彼女のおっしゃったことのすべてを受け入れることができませんでしたが、そのすべてをわたしのために次のように言い換えました。『神のほか、なにも存在しない。わたしは神に創造され、完全に神に依存している。こころは、用いるためにわたしに与えられている。わたしがこころをこめて体の正しい働きに意を尽くせば尽くすほど、わたしは、わたしの無知や恐れ、過去の経験の束縛から解放されるだろう』 それにしたがい、その日、わたしは家族に供される食べ物の全品を少しづつ口にしはじめ、常に『胃腸を創造なされた力は、わたしの食べたものの面倒をみなさるに違いない』とみずからに言い聞かせていました。夜のあいだ、これらの忠言を胸にとどめていて、ベッドに入り、『わたしは、魂であり霊、神さまのみこころにあるわたしとひとつ』と言いながら寝つき、夜通し目が覚めることなく眠りましたが、このようなことは数年来ではじめてのことでした(夜中の二時ごろになると、たいてい苦悩発作がぶり返していました)。翌日、わたしは脱走を果たした囚人のように感じ、時がいたれば、わたしに完全な健康を授けてくれる秘密を見つけたと信じました。一〇日間のうちに、他の人たちに供される食べ物はなんでも食べられるようになり、二週間後に、わたし独自の真実に関する前向きな提言をものしはじめましたが、わたしにとって、これらは踏み石のようなものです。以下にいくつか書き記しておきますが、これらはほぼ二週間おきに示されたものです。
「その一。わたしは魂であり、だからわたしは調子がよい。
「その二。わたしは魂であり、だからわたしは健康である。
「その三。わたしのある種の自己省察では、わたしの姿は四足獣のそれであり、体の具合の悪かった箇所のすべてにこぶがあり、顔はわたしのものだったが、その獣はそれがわたし自身であると認めてほしいと迫っていた。わたしは健康であることに断固として注意を集中し、この姿をした古いわたしの自我を見ることさえも拒んだ。
「その四。ふたたび、はるかかなたの背景のなかに弱々しい声の獣の幻影。ふたたび、認知拒否。
「その五。さらにもう一度、幻影が現れたが、もの欲しそうなようすのわたしの目の幻影だけ。ふたたび、拒否。すると、わたしは魂であり、神の完全なみこころの表れであるのだから、わたしは完璧に健康であり、常にそうだったという確信、内面的な意識が生じた。それは、わたしにとって、わたしそのものとわたしの外観との完全で完結した分離だった。このあと、着実にこの真実を確認することによって、また、絶えずわたしの全身を通して健康を表現する程度に応じて(この段階に達するまで、二年かかりましたが)、わたしは首尾よくわたしの真の実在を見失わずにすんでいる。
「その後一九年間のわたしの経験でいえば、この真実を適用して、それが役立たないとわかるようなことは一度もありません。もっとも、わたしは無知のためにしばしば適用しそこねるのですが、失敗をとおして、わたしは幼児の純真で信頼するこころを学びました」
ところで、これほど多くの事例を並べたてて、わたしはみなさんがうんざりするのではと恐れるので、ここでふたたび冷徹な一般論にみなさんを連れ戻すことにします。以上のような体験記録から、精神療法をはなから宗教運動に分類しないわけにはいかないことが、みなさんにおわかりでしょう。わたしたちの命と神の命とがひとつであるという、この信条は、他でもないこのギフォード講座で、みなさんの非常に有能なスコットランドの宗教哲学者たち[52]の何人かによって弁護されてきたキリストのことばの解釈とじっさいに極めて区別しがたいものなのです。
[52] たとえば、ケアード兄弟。エドワード・ケアード〔Edward Caird(1835-1908)スコットランドのヘーゲル主義神学者〕が一八九〇年から九二年にかけてグラスゴー〔ギフォード講座を開催するスコットランド諸大学のひとつ〕で受け持った講座には、次のような文がふんだんにある――
「イエスが神の福音を伝える手始めに『時は満ち、神の国は近づいた』〔マルコによる福音書1-15〕といわれたことばは、『神の国はあなたがたの間にある』〔ルカによる福音書17-21〕と答えられたのとほとんど違わずに通底しています。そして、この福音の重要性は、それが、先立つ分裂の時代に生きた最も偉大な聖人たちや預言者たちと『天の国で最も小さな者』〔マタイによる福音書5-19〕との間に、いわば種類の違いを見ているという点にあります。最高の理想が人びとの間近に伝えられ、人間の手の届くところにあると宣言され、人びとは『あなたがたの天の父が完全であるように、完全』〔マタイ5-48〕であるようにと説き聞かされます。イスラエルの信心深い民が、神を単なる国家の神ではなく、エドムやモアブを罰したのと同じように確実に罪のゆえにイスラエルを罰する正義の神と見るように学び、まさしくそれに応じて育んだ神からの疎外感や距離感はもはや当を得ないと宣言されています。また、キリスト教の祈りの典型的な形式は、ユダヤ人の全歴史を通じて絶えず広げられていた、この世とあの世とを比較することをやめるようにと促しています。『天におけるように地の上にも』〔マタイ6-10〕ですね。神から人間が分離しているという感覚は、無限なるものに対する有限者として、全能の善なるものに対する弱くて罪ある者として、じっさいになくなったわけではありません。しかし、もはやその感覚は両者がひとつであるという意識を圧倒しないのです。『子』と『父』ということばは、対立とその限界とを同時に示しています。それは絶対的な対立ではなく、不滅の合一の原理を前提としていて、和解の原理になりうるし、ならなければなりません」
-- The Evolution of Religion, ii. pp. 146, 147.
「イエスが神の福音を伝える手始めに『時は満ち、神の国は近づいた』〔マルコによる福音書1-15〕といわれたことばは、『神の国はあなたがたの間にある』〔ルカによる福音書17-21〕と答えられたのとほとんど違わずに通底しています。そして、この福音の重要性は、それが、先立つ分裂の時代に生きた最も偉大な聖人たちや預言者たちと『天の国で最も小さな者』〔マタイによる福音書5-19〕との間に、いわば種類の違いを見ているという点にあります。最高の理想が人びとの間近に伝えられ、人間の手の届くところにあると宣言され、人びとは『あなたがたの天の父が完全であるように、完全』〔マタイ5-48〕であるようにと説き聞かされます。イスラエルの信心深い民が、神を単なる国家の神ではなく、エドムやモアブを罰したのと同じように確実に罪のゆえにイスラエルを罰する正義の神と見るように学び、まさしくそれに応じて育んだ神からの疎外感や距離感はもはや当を得ないと宣言されています。また、キリスト教の祈りの典型的な形式は、ユダヤ人の全歴史を通じて絶えず広げられていた、この世とあの世とを比較することをやめるようにと促しています。『天におけるように地の上にも』〔マタイ6-10〕ですね。神から人間が分離しているという感覚は、無限なるものに対する有限者として、全能の善なるものに対する弱くて罪ある者として、じっさいになくなったわけではありません。しかし、もはやその感覚は両者がひとつであるという意識を圧倒しないのです。『子』と『父』ということばは、対立とその限界とを同時に示しています。それは絶対的な対立ではなく、不滅の合一の原理を前提としていて、和解の原理になりうるし、ならなければなりません」
-- The Evolution of Religion, ii. pp. 146, 147.
しかし、一般に哲学者たちが準論理的に悪の存在を説明するのに対して、精神療法家たちは、わたしが接したかぎりですが、世の悪についての一般的な事実である利己主義、苦しみ、臆病な有限の意識について、憶測にもとづく説明をしません。だれにとってもそうであるように、悪は精神療法家にとっても経験的に存在するのですが、実利の観点が優先されますので、それが「理解不能」であるとか「難問」であるとか、くよくよ気に病んだり、福音主義の流儀にならって、その経験の教訓を「じっくり考え」て、時間をつぶしていたりしていては、精神療法の意図に反することになるでしょう。ダンテ〔Dante Alighieri(1265-1321)フィレンツェ生まれの詩人。『神曲』〕がいうように、悪を論じていないで、一瞥するだけで越えてゆけ!なのです。それは、無明〔Avidhya=サンスクリット語〕、無知! 脱却して置き去るもの、克服して忘れ去るものにすぎないのです。エディ夫人〔Mary Baker Eddy(1821-1910)クリスチャン・サイエンス教会創設者〕の教派、いわゆるクリスチャン・サイエンスは、悪の扱いにおいて、精神療法の最も過激な一派です。彼らにとって、悪は単純に虚妄であり、悪を語る人はみな虚言者なのです。楽観主義的な義務の理念は、あからさまな注目にすぎなくとも、悪に敬意を払うことを禁じるのです。これ以降の講義で明らかになるとおり、もちろん、これは悪しき論理の不作為ですが、わたしたちが検討している手法の効用価値と密接に結びついています。精神療法家なら、あなたに善の生きかたを手に入れさせられるというのに、なぜ悪の考えを惜しむのですか?と問うことでしょう。
結局、ものをいうのは生きかたなのです。精神療法は精神衛生の生きた手法を開発し、それが魂のダイエット〔Diätetit der Seele〕に関する以前の文献すべてを闇に葬り去ったといっても過言ではありません。この手法には、楽観主義が完全かつ排他的に凝縮されています。「悲観は弱さに通じ、楽観は力に通じます」。最も精力的な精神療法作家のひとりが、著作の各頁の末尾に太字で記しているように、「思いは道具である」のです。しかも、あなたがたの思いが、健康、若さ、活力、成功であれば、気づきもしないうちに、これらのものが外界での取り分になるでしょう。根気強く追求すれば、楽観思考の再生作用の影響を受けられない人はいません。すべての人が、この聖なるものへの入り口を例外なくもっています。逆に、恐怖、およびあらゆる萎縮した利己的な思考様式は、破滅への入口です。ここで、たいがいの精神療法家たちは、思考は“勢力”であり、類は類を呼ぶという法則にもとづき、ある人間の思いは、世界に偏在する同じ性格の思いをみずからの同盟勢力として引き寄せるという教義をもちこみます。そこで、思いによって、他の場から欲求の実現のための応援を得るのです。生きかたの実践の眼目は、心を開いて、天の軍勢を味方に引き入れることにあります。
全般的に見て、精神療法運動とルター派およびウェズレー教派の運動との心理学的類似性に印象づけられます。「救われるためには、わたしはどうすればいいのでしょう?」と、心配げな質問をする徳目と務めの信奉者に対して、ルターとウェズレーは「信じさえすれば、あなたはすでに救われている」と答えました。精神療法家たちもまさに同じ解放のことばを携えて登場します。なるほど、彼らは、救済の概念が古の神学的意味を失っている人たちを相手に語りかけているのですが、それでもやはり、この人たちは同じ永遠の人間の厄介事を抱えて骨折っているのです。万事、調子が悪い。「どうすれば、明朗で正しく、健やかに統合され、調子がよくなれるのでしょうか?」というのが、彼らの質問の形式なのです。回答は、「気づきさえすれば、あなたはすでに調子がよく、健やかで明朗になっている」というものです。わたしが前に引用した著述家たちのひとりは、「ことの全体は、一文に要約できる」といいます。「神は順調であり、あなたもそうなのだ。あなたはみずからの真の実在に目覚めなければならない」
かの昔の福音に説得力をもたらしたものは、人間の大集団の精神的欲求に対するメッセージの妥当性です。表面的にはばかげて聞こえるかもしれませんが、精神療法のメッセージの場合でも、まさしく同じ妥当性が支えています。その影響力の急速な拡大と施療実績を目にして(たぶん、発言の多くに未熟で過度な表現が見受けられる[53]という、まさしくその理由のために)、それが、かの往時の運動とほぼ匹敵するほど、将来の民衆宗教の発展に大きな役割を担う定めになっていないのだろうかと問いたくなります。
[53] ドレッサー氏の一門は、精神療法体験の様式と学究的な哲学とがますます相互浸透するようになると予測するが、それほど批判的でも合理的でもない諸流派の実質的な勝利を判定するようになるかどうかはまだわからない。
それにしても、ここでわたしは学究肌の聴講生のみなさんの一部に「神経を逆なでされる」思いをさせはじめたのではと恐れます。みなさんとしては、このような現代の奇想天外な動きが品位のあるギフォード講座でこれほど幅を利かすようなことがあってはならないと思われるかもしれません。みなさんには忍耐をひたすらお願いするのみです。わたしとしては、目下の講義シリーズの最終的な成果はさまざまな人間の精神生活が示す途方もない多様性をみなさんのこころに印象づけることにあるように思います。人間の欲求、人間の感受性、人間の器量は、すべてさまざまに異なっており、それぞれ異なった項目ごとに分類されなければなりません。その結果、ほんとうにさまざまに違ったタイプの信仰体験がえられることになります。この講義で健全な精神のタイプの実像に迫るためには、その最も極端な形とわかるものを取りあげなければなりません。性格の個別型を研究する心理学は――わたしたちの講座がその構築に少しだけでも貢献できるかもしれませんが――いまだに概略を描きはじめることさえにも及んでいません。まず銘記しなければならないのは(とりわけわたしたち自身が聖職者・学者・科学者タイプ、公的・伝統的な“正統派”タイプ、“くそまじめ”タイプであり、常習的に部外者を無視する誘惑にとらわれている場合)、自分がそのようなものには参加できないという理由だけで、その現象をわたしたちの知見から締め出してしまうことほどに愚かなふるまいはないということです。
さて、性格の望ましい変化が、公認の道徳家らの定める規則によって促されるのからはほど遠く、かえってこのようなルールがまさに逆転させられたときにこそ――発達段階に応じて、さまざまな程度で――首尾よく実現するという人びとがおびただしい数で存在することが、ルター派の信仰による救い、メスジスト派の回心、それにわたしが精神療法運動と呼ぶもの、これらの歴史によって示されています。公認の道徳家たちは、奮励努力を緩めてはならないと勧告します。「夜昼かまわず、警戒を怠ってはならない。受身の性根を改めなさい。無為を避けなさい。意思を弓のように張り詰めていなさい」と厳命します。ところが、ここで話題にしている人たちは、この意識的努力のすべてが誘うのは失敗とわが身の苦痛に他ならず、自分たちを以前の二倍にも増して地獄の子どもにするだけであると見抜きます。緊張と自発的な態度とは、その人たちの内部で手に負えない熱と苦痛になります。軸受けが過熱し、ベルトがきつく張ると、機械はまったく動かなくなります。
こういう環境のもとで成功にいたる道は、数えきれないほど多くの信頼できる人たちの発言が請合うように、反・道徳主義による方法、第二講でわたしが言及した“帰依”〔神仏など卓越した存在に服従し、すがること〕です。能動ではなく受動。いまや緊張ではなく弛緩がルールであるべきなのです。責任の感覚を放棄し、わがものを手放し、運命をハイアー・パワー〔higher powersより高次の力〕の配慮に委ね、すべてなりゆきに任せて無頓着でいるなら、申しぶんのない内面の安息だけでなく、しばしばそれに加えて、放棄していると虚心に思っていた特定の資質も得られます。これは、自己に対する絶望による救い、ルター神学が説く真に生まれるための死、ヤコブ・ベーメ〔Jakob Böhme(1575-1624)ドイツの神秘主義思想家〕の書き残した無への移行です。そこに達するには、一般にひとつの臨界点を通過し、こころのなかの曲がり角を曲がらなければなりません。あるものが退き、生まれながらの硬さが崩れ、溶けなければなりません。このできごとは(このあと、たっぷりと見ていくように)、しばしば突発的に、また自動的に起こり、自分は外部の力からの働きかけを受けたという印象を体験者に残します。
その最終的な意義がどのようなものになるにしろ、これは確かに人間体験のひとつの基本的な形です。それを受容できるかできないかが、単なる道徳的人格から宗教的人格を分かつという人たちもいます。それを完全な形で経験する人たちにとって、いかなる批判もその現実に対する疑問を投げかけることはできません。その人たちは知っているのです。個人的な意思の緊張を見限ることによって、ハイアー・パワーをじっさいに感じたのですから。
信仰復興集会の説教師たちがよく語る話に、夜中に断崖を滑り落ちた男のものがあります。男はようやく一本の枝をつかみ、転落を免れましたが、何時間も惨めに枝を握りしめたままになりました。だが、とうとう握力が尽き、人生に絶望的な別れを告げ、落ちるにまかせました。男はたったの六インチ落ちました。もっと早くあがくのをやめていれば、苦しみもだえることもなかったのです。神を完全に信頼し、自分の個人的な強さに頼る習癖を、当てにならない予防策や助けにならない安全策とともに捨てるなら、母なる大地がこの男を受け止めたように、永遠の腕がわたしたちを受け止めてくれると説教師たちは説きます。
精神療法家たちはこの種の体験の範囲を最大限に広げました。リラックスすること、あるがままに任せることによる再生の形は、ルター派のいう信仰により義とされることやウェズレー派〔メソジスト〕のいう無条件の恩寵を受け入れることと心理学的に区別できないのですが、これが、罪の自覚もなく、ルター神学に関心もない人たちの手が届く範囲内にあることを彼らは見せてくれたのです。それは、個人のちっぽけで発作的な自我を休ませ、もっと大きな自我がそこにあると気づくだけのことなのです。遅い早い、大きい小さいに関係なく、楽観と期待が結びついた結果は、つまり努力の放棄にもとづく再生現象は、神学論、汎神観念論、医学唯物論のうち、どの立場の最終的な因果説明を採用しても、人間性の確かな事実であることに変わりありません。[54]
[54] 有神論は、神の恩寵によって、古い性質が虚心に捨てられた瞬間、新しい性質が人のこころに創造されると説明する。汎神論は(大多数の精神療法家と同じく)、不信や不安という隔離障壁が取り除かれた瞬間、狭量な個人的自我が、もっと広い、またはもっと大きな自我、つまり宇宙の霊(あなた自身の“意識下”自我と同じ)に溶け込むと説明する。医学唯物論は、(この場合、霊的にではなく)生理学的に“より高度な”脳の作用は、規制を追求して、なりゆきを滞らせるだけであり、これを遮断することによって、もっと単純な脳の作用が自動的に動きはじめ、もっと自在に活動すると説明する。三番目の説明が、宇宙の精神・物理的解釈において、他の二つのいずれかと組み合わせられるかどうかはここでは未解明のままである。
信仰復興運動の回心という現象を取り上げるさい、以上のすべてについてもっと学ぶことになるでしょう。いまは、精神療法家の手法について、手短に言及しておきましょう。
もちろん、その手法はおおむね暗示にもとづくものです。環境がおよぼす暗示作用はあらゆる霊性啓発に絶大な役割を担っています。しかし、「暗示」ということばが公認の地位を得て、残念なことに、多様である個別事例の感情に対する問診をすべて回避するために用いられ、多くの分野で研究を興ざめにする役割をすでに演じはじめています。「暗示」とは、信念と行為に有効であるかぎりにおける観念の力の別名であるにすぎません。観念はある人たちに有効であったり、他の人たちに無効であったりします。ある時期、ある人間環境で有効である観念が、別の時期、別の人間環境ではそうではありません。キリスト教会の観念は、昔の諸世紀でどうだったかはいざしらず、現代医学の処方としては無効です。だから、こちらでは塩に味があり、あちらでは味がないというのが、問題のすべてであるとすれば、「暗示」ということばを旗のようにひらひらさせても、解明の役には立ちません。ゴダード博士は、『信仰療法』に関する率直な医学論文において、キリスト教会の観念は普通の暗示となんら変わらないと論じ、「宗教(博士はこれをわたしたちの大衆的なキリスト教を指していっているようです)には、精神治療学にあるものがすべて揃っていて、しかも最良の形で保たれている。(わたしたちの宗教の)観念に従った生きかたは、およそ可能なことをすべてわたしたちに成し遂げさせる」と結論します。しかも、大衆的なキリスト教がまったくなにもしない、あるいは精神療法が救援に駆けつけるまでなにもしなかったという厳然たる事実があるにもかかわらず、そのとおりなのです。[55]
[55] 教会の内部では、病を天意とみなす傾向が常に優勢だった。それは、懲罰や警告として、あるいは徳を修める機会として、カトリック教会では“功徳”を積む機会として、神からわたしたちのために送られるものである。善良なカトリックの著作家P・ルジューン〔Paul Le Jeune(1591-1664)フランス領カナダのイエズス会宣教師〕は、「病は、最もすぐれた身体の苦行、つまり人みずからの選択によらず、じかに神によって課せられる苦行であり、神の御心がじかに発現したものである。モンセニョル〔高位聖職者に対する尊称〕・ゲイは、『他の苦行が銀でできているなら、これは金でできている。それは、原罪に由来するがゆえに、わたしたち自身から生じるにしても、もっと大きな側面では、(ほかのあらゆるものごとと同じく)神の摂理によって生じるのであるから、神の御業に属する。その打撃の義なるかな! 霊験あらたかなるかな!……長患いに耐えることは、苦行のまさしく傑作であり、したがって抑制された魂の勝利であると余はためらわずにいう』と仰せになっている」(Introd. a la Vie Mystique, 1899, p. 218)と書いている。この見解によれば、どんな場合でも、病はあまんじて受け入れるべきであり、ある場合には、病気退散を願うのは冒涜にさえなる。
もちろん、これには例外があり、いつの時代でも、特別な奇跡による治療が教会の境内で認められ、ほとんどすべての聖人が多少なりともこれを施してきた。いまでもこれは可能であるとしたのが、エドワード・アーヴィング〔Edward Irving 1792-1834=スコットランド教会(カルビン主義長老教会)の教職〕の異端説のひとつだった。ヨハン・クリストフ・ブルームハルト〔Johann Christoph Blumhardt 1805-80=ドイツのルター派神学者〕の場合、一八四〇年代の初め、患者の側での告解と回心、聖職者の側での祈祷による、きわめて純粋な治癒能力がごく自然発生的に生じ、これが三〇年近くのあいだ用いられた。ズンデルによる『ブルームハルトの生涯』(Blumhardt’s Life by Zundel, 5th edition, Zurich, 1887)は、第九、一〇、一一章および第一七章に、彼の治療活動の全体像を紹介していて、それによれば、彼は常に変わらず治療は神の直接的な介在のおかげであるとしている。ブルームハルトは、きわだって純粋で素朴、非狂信的な性格の人であり、彼のこの方面の働きでは先例にならうことはなかった。現代のシカゴでは、スコットランド人のバプチスト派説教師J・A・ダウィー〔John Alexander Dowie(1847-1907)〕がいて、その週刊『癒しの葉』は、一九〇〇年時点で第六巻に達している。彼は、他派の療法を「悪魔のまやかし」とそしり、もっぱら彼のものだけを「神の癒し」としているが、全体として精神療法運動に数えなければならない。精神療法界における信仰の基本条項は、病を受け入れてはならないというものである。病気は、徹頭徹尾、地獄の産物である。神は人間が完全に健康であることをお望みなので、程度の低い取り決めにあまんじてはならないのである。
もちろん、これには例外があり、いつの時代でも、特別な奇跡による治療が教会の境内で認められ、ほとんどすべての聖人が多少なりともこれを施してきた。いまでもこれは可能であるとしたのが、エドワード・アーヴィング〔Edward Irving 1792-1834=スコットランド教会(カルビン主義長老教会)の教職〕の異端説のひとつだった。ヨハン・クリストフ・ブルームハルト〔Johann Christoph Blumhardt 1805-80=ドイツのルター派神学者〕の場合、一八四〇年代の初め、患者の側での告解と回心、聖職者の側での祈祷による、きわめて純粋な治癒能力がごく自然発生的に生じ、これが三〇年近くのあいだ用いられた。ズンデルによる『ブルームハルトの生涯』(Blumhardt’s Life by Zundel, 5th edition, Zurich, 1887)は、第九、一〇、一一章および第一七章に、彼の治療活動の全体像を紹介していて、それによれば、彼は常に変わらず治療は神の直接的な介在のおかげであるとしている。ブルームハルトは、きわだって純粋で素朴、非狂信的な性格の人であり、彼のこの方面の働きでは先例にならうことはなかった。現代のシカゴでは、スコットランド人のバプチスト派説教師J・A・ダウィー〔John Alexander Dowie(1847-1907)〕がいて、その週刊『癒しの葉』は、一九〇〇年時点で第六巻に達している。彼は、他派の療法を「悪魔のまやかし」とそしり、もっぱら彼のものだけを「神の癒し」としているが、全体として精神療法運動に数えなければならない。精神療法界における信仰の基本条項は、病を受け入れてはならないというものである。病気は、徹頭徹尾、地獄の産物である。神は人間が完全に健康であることをお望みなので、程度の低い取り決めにあまんじてはならないのである。
ある観念が暗示として働くためには、啓示の説得力をもって人に届かなければなりません。健全な精神状態の福音を携えた精神療法は、教会キリスト教が頑ななままに残した多くの人のこころに啓示として届きました。人びとのより高い命の泉を湧きださせたのです。いかなる宗教運動であっても、それまで閉じられていた水の通り路を見つけ、ある人間集団のために泉を解放することを措いて、なにをもって独創性を発揮できるのでしょうか?
個人の信仰、熱意、実例のもつ説得力、そしてなによりも目新しさのもつ説得力が、いつでもこの種の成功における暗示の最大の要因になります。精神療法が公認されて立派になり、地歩を固めてしまえば、これら暗示の効能を高める要素は失われてしまうでしょう。突っ張った段階にある宗教は、きっと安住の地をもたない砂漠のアラブ遊牧民になるはずです。少数派の先鋭的な信仰が多数派の旧来の信仰に歯向かう内部闘争がこじれて障害となり、これは信仰をもたない人たちが聖霊の躍動を妨害することによる障害よりもやっかいだからです。ジョナサン・エドワーズ〔Jonathan Edwards 1703-58=米国のカルヴァン主義神学者。信仰復活運動『大いなる覚醒』を推進〕は次のようにいいます――
「冷たく鈍い聖徒たちは自然の人〔*〕よりも有害であり、もっと多くの魂を地獄に導くのであり、こういう聖徒らは死んだほうが人類の福利にかなうと、今日、一部の人たちがいっているのがほんとうであるとして、元気のないキリスト教徒である聖徒らのために祈るとすれば、彼らに活気を与えてくださるか、追放なさるか、どちらかになさってくださいと祈るのがよいだろう」[56]
〔「自然の人は神の霊による事柄を受け入れません」コリントの信徒への手紙一2-16〕
[56] この発言はニューイングランドの信仰復興に関する本から引用したものであり、当のエドワーズはこのような祈りをしないようにと諌めているのだが、よそよそしく血の気のない教会員を槍玉にあげて楽しんでいることが容易に読みとれる。
成功のための次の条件は、健全な精神状態を手放すことによる再生の意欲に結びつける人びとが、明らかに、おびただしい数で存在していることです。プロテスタント教会は自然の人に関してあまりにも悲観的であってきましたし、カトリック教会はあまりにも律法主義的、徳目主義的であり、どちらの場合も、これらの成分の一風変わったブレンドでできあがった性格のタイプに寛大なこころで働きかけることができません。ここにいるわたしたちのなかにほとんどいないとしても、このタイプが、世間にけっこうたくさん見受ける特定の心理の組み合わせを構成しているのはいまや明らかです。
最後に、精神療法はわがプロテスタント諸国で前例がないほど大いに潜在意識の力を活用しました。その創始者たちは、道理を尽くした助言と教条的な決めつけに加えて、受け身の脱力、精神集中、瞑想の組織的な練習を採用し、催眠術のようなものに頼りさえもしました。次にいくつかの文章を無作為に引用してみましょう――
「価値、つまり理想の潜在力――内から外への、小から大への発達――は、新思想が力説する偉大な実践的真理である。[57] したがって、この信頼が文字どおりに暗闇のなかの一歩のようなものであっても、思いは理想的な結果に集中していなければならない。[58] これほど効果的に心の向きを決める能力を得るために、新思想は、精神集中の実践、すなわち自制心の獲得を助言する。こころの傾向を整えることを修得し、選ばれた理想によってひとつにまとめられるようにしなければならない。この目的のために、自分ひとりだけで黙想をおこなうための時間を設けるべきであり、その場所は、霊的想念に適した環境の部屋が望ましい。新思想の用語では、これを『沈黙に没入する』という[59]」
[57] H. W. Dresser: Voices of Freedom, 46.
[58] Dresser: Living by the spirit, 58.
[59] Dresser: Voices of Freedom, 33.
「忙しい仕事場にいても、騒がしい街路にいても、あなた自身の思いの幕をまわりに張り巡らし、そこにいてもどこにいても、無限の命、愛、知恵、平和、力、豊穣の聖霊があなたを案内し、支え、守り、導いていると実感するだけで、沈黙に没入できる時がくるだろう。これが絶えない祈りの人である。[60] わたしが会ったことのあるなかで最も直観力のある人たちのひとりは市役所の事務職員であったが、職場で常に他の数人の男性諸氏が勤務しており、しばしば大きな声を話し合っていた。まわりのさまざまな騒音にまったく邪魔されることのない、この自己に集中した信心深い男は、困ったことがあるといつでも、プライバシーのカーテンを身のまわりに完全に引き、まるで原生林のなかにひとりいるかのように、自分自身の精神的オーラのなかにすっぽりと引きこもったものである。彼は厄介事を直接問いかけるという形で人知を超えた沈黙に持ちこんで、的確な答を期待し、応答があるまでまったくの受け身の姿勢を保ち、それでいて、長年の経験のなかで一度として期待はずれに終わったり見当はずれの答を与えられたりはしなかった[61]」
[60] Trine: In Tune with the Infinite, p. 214
[61] Trine: p. 117.
知りたいものですが、これはどの点でカトリックの修道でかくも大きな役割を果たしている“黙想”修行と本質的に違っているのでしょうか? これを別の呼びかたで神の臨在の実践といいますが(またジェレミー・テイラー〔Jeremy Taylor(1613-67)英国の主教〕にも例があるように、わたしたち自身の間でもこの呼びかたで知られています)、名高い教育者アルバレス・デ=パス〔Alvarez de Paz(1560-1620)南米リマで神学と哲学を講義〕はこれを黙想に関する著作のなかで次のように定義しています――
「それは、神の黙想、神を思うことであり、あらゆる場所や環境において、神の現身をわたしたちに見せて、畏れ多くも親しく神と触れ合うようにさせ、神への欲求と愛とでわたしたちを満たす……あなたはすべての悪から逃げたいだろうか? 栄華にあっても、逆境にあっても、どのような場合でも、この神の面影を失わないように。神があなたをご覧になっていることを、あなたが神の面前にいることを常に思い出せるのだから、困難だからとか、大事な用件を抱えているからとか、本務を捨てる口実にしてはならない。一時間に千回神を忘れるようなら、千回、記憶を新たに奮い起こすように。不断にこの修行をすることができないようならば、できるだけこの修行に親しむように。厳しい冬に、できるだけしばしば火のそばに寄るように、熱く燃えて、あなたの魂を暖める、あの火にできるだけしばしば向かうように」[62]
[62] Lejeune: Introd. a la vie Mystique, 1899, p. 66の引用による。
カトリック修道が外形的に連想させるものは、もちろんすべて精神療法の考えかたのどれとも似てはいませんが、修行の純粋に霊的な側面のみに着目すれば、両者ともまったく変わりませんし、いずれの宗旨でも、霊的側面を力説する人たちは明らかに本人が体験したことを語っていますので、権威をもって書き記しています。ここでもう一度、精神療法の語り口を比べてみましょう――
「高尚で健全、純粋な思考は、奮い起こし、促し、強めることができる。思考の流れは崇高な理想に向けられ、ついにはそれが習い性となり、水路をうがつことが可能になる。このような修練を手段とすることによって、精神の視界に、美、健康、調和の陽光があふれるようになる。純粋で高邁な思考を覚醒させることは、最初はむつかしく思え、ほとんど機械的であるかもしれないが、忍耐によって、長い間にそれがやさしくなり、やがて楽しくなって、ついには喜びに満ちたものになる。
「魂の現実世界は、魂がその思想、精神状態、想像力で築いたものである。決意するなら、わたしたちは感覚的な下界の地平に背を向け、霊性と真実の領域へとみずからを引き上げて、そこに居所を得ることができる。待ち望み、受け容れる状態を思い浮かべれば、霊の陽光が誘いこまれ、大気が真空を満たすごとく自然に流れこむだろう……頭が日課や職務で占められていないとき、いつも思いを霊の大気圏の高みへと馳せるべきである。日中には静かな余暇の瞬間があり、夜には目覚めている時間があるので、そういうとき、大いに効果のあがる健全で喜びにみちた修練が可能になるだろう。思考力を高めて制御する努力を系統的にしたことが一度もない人が、たった一か月、ここに提案されている訓練を熱心におこなうなら、その結果に驚き、喜ぶことになり、どんなことがあっても、軽率で目的もなく、底の浅い思考に連れ戻されなくなるだろう。そのような好ましい時期には、外界は日常のできごとの流れ全体とともに締め出され、人は魂の内院の静かな聖域におもむき、神と交わり、飛翔する。霊的聴覚が精妙に鋭くなり、『静かで小さな声』が聞こえ、外界感覚の騒がしい波が収められ、大いなる静寂が存在する。自我は自分が、神聖なる存在、わたしたち自身よりも近い、力、癒し、愛の父なる命と向き合っていると次第に気づくようになる。そこに親なる魂との魂の触れあいがあり、涸れることのない泉から、命、愛、徳、健やかさ、幸福が流れこむ」[63]
[63] Henry Wood: Ideal suggestion through Mental Photography, pp. 51, 70, 要約。
わたしたちが神秘主義の講義テーマに達するとき、みなさんはこのような意識の高揚状態の浸礼〔全身を水に浸す洗礼〕をとても深く経験することになりますので、いってしまうなら、全身びしょびしょになります。そのごく小さな滴が身にかかるだけでみなさんの念頭に浮かぶかもしれない疑惑――このような書き物すべては、他者を説得するための単なる観念的なお話し〔pour encourager les autres=フランス語〕やレトリックにすぎないのでは、という疑い――がもよおす冷ややかな身震いは、とっくに昔の話しになっているでしょう。いっておきますが、この「〔神人〕合一」という意識状態はまったく明確な類いの体験であって、ときおり魂はこれに没入することがあり、これによって人は心得のある他のどんなものによって生きるよりも深い意味で生きるのかもしれない、とみなさんは納得なさっていることでしょう。ここで、わたしは全般論としての哲学的考察に移れるのですが、それをもって、健全な精神状態のテーマから離れ、すでにたっぷりと長くなりすぎた話題をおしまいにするべきなのでしょう。その哲学的考察とは、この組織化された健全な精神状態の、精神療法信仰における科学的手法および科学的生活に対する関係にかかわるものです。
後日の講義のさい、一方で科学に対する、他方で太古の未開人思考に対する宗教の関係について明確に論じなければならなくなるでしょう。今日、宗教思想は、見識ある人文科学がずっと昔に置き去りにし、抜け出た意識類型の単なる残存種や隔世遺伝的な先祖返りであるにすぎないと説くはずの――「科学者」とか「実証主義者」とか自称するのが好きな――人たちがどっさりいます。そういう人たちにお説をもっと詳しくご説明いただけますかとお願いすると、おそらく、原始思考の場合、万物を人格性の形で考えるというでしょう。未開人はものごとが人間の力によって個別目的のために動くと考えます。未開人にとって、外界の自然さえもが個別の要求や申し立てに従いますので、まるで要求や申し立てがとても数多い基本的な力であるかのようです。他方の実証主義者たちは、人格は自然における基本的な力であることからほど遠く、物質的、化学的、生理的、精神物理的といった、すべて本質において非人格的・一般的である、真に基本的な諸力が合わさった受身の産物であると今日では科学が証明しているといいます。個人的なものは、なんらかの宇宙法則に従い、それを具体化する場合を除いて、宇宙におけるなにごとも成就しません。では、どのような手段で科学がこのように未開思想の地位を奪い、ものごとの人格的な見かたを否定したのですかと彼らにお伺いするとしますと、実験による検証という手段を厳密に用いることによってであると疑いなくいうでしょう。科学の概念、人格性をすべて無視する概念をどこまでも実地に即して追求すれば、常に確証を得られるとそういう人たちはいうでしょう。世界は、みなさんの予測を非人格的・普遍的なものとして推論するという条件を守るかぎりにおいて、またそのかぎりにおいてのみ、その予測をすべて経験的に検証できるというふうにできています。
だが、ここに精神療法が登場し、正反対の哲学を掲げながら、まさに同一の主張を唱えているのです。あたかも自分が正しいかのように生きなさい、と精神療法はいいます。そうすれば、日常生活があなたの正しさを実地に証明してくれるというわけですね。自然をコントロールするエネルギーが人格的なものであること、あなたがたご自身の私的な思いがエネルギーであること、および宇宙の諸力があなたがたの個人的な訴えや要求にじかに反応することは、あなたがたの心身の体験の全体が立証するはずの命題なのです。また、経験がこのような原始時代の宗教観念をおおむね実証していることは、精神療法運動がこのように普及しているという事実によって、単なる言明や主張でなく、手応えのある経験にもとづく結果として証明されます。ここに、まさしく科学の権威が絶大であるさなか、精神療法運動は科学哲学に対する積極果敢な戦闘を遂行し、科学自体の独特な戦法と武器を用いて成功しています。わが身を委ね、精神療法を用いると同意しさえすれば、ハイアー・パワーはわたしたちが自分の世話をするよりも上手にわたしたちの面倒をなんらかの形で見てくれると信じるなら、精神療法は非難されなくなるだけでなく、観察によって裏付けられて、信頼を確立するでしょう。
どのように回心がなされ、改宗者が信念を確かなものにするのかは、すでに引用した体験談によってじゅうぶん明かされています。それでも、短いものを二つ引用して、問題を完璧に具体的なものにしておきましょう。ひとつは、こうです――
「わたしが教えを生かしはじめたころの体験のひとつは、はじめて治療家に会ってから二か月後のものでした。わたしは転倒し、足首を挫いたのですが、かつて四年前にもそこを挫いてしまったことがあり、そのときは何か月か松葉杖と伸縮性の留め具を用いなければならず、その後ずっと痛めないように気をつけていました。立ち上がってすぐに、わたしは次のような前向きの暗示をかけました(そして、その暗示をわたしの存在全体で感じました)――『神の他なにもなく、命すべてがそっくり神からもたらされる。わたしが捻挫したり、傷ついたりすることはありえない。神に面倒を見ていただこう』。さて、わたしは足首に痛みを覚えず、その日、二マイル歩きました」
次にあげる事例は、実験と検証だけでなく、先ほど説明した受動性と帰依の要素をも明示しています――
「ある朝、わたしは町へ買い物に出かけたのですが、さほど行かないうちに具合が悪くなりました。気分が急に悪くなり、ついには体中の節ぶしの痛み、吐き気と脱力、頭痛、つまりインフルエンザ発症の先触れの兆候のすべてが現れました。わたしは、ボストンで蔓延していた流感、あるいはもっと悪い病気にかかろうとしているのだと思いました。そのとき、冬じゅう聴講していた精神療法講座が念頭に浮かび、これはいま自分で試してみる機会であると考えました。帰宅途中、友だちに出会ったのですが、いくらか努力して、自分の気分を彼女に話すのを控えました。それが第一ステップの達成でした。ベッドに直行すると、わたしの夫は医者の往診を望みました。でも、わたしは、朝まで待って、どんな気分になるか様子を見てみると夫に告げました。すると、わたしの人生で最もすばらしい体験のひとつが始まったのです。
「わたしは『命の流れに身を横たえ、それがわたしのうえを流れるがままにしているのだ』という以外にそれを表現するすべを知りません。わたしは、差し迫った病気の恐れをすべて放棄しました。わたしは完全に意欲的で従順でした。知的な努力も思考の営みもありませんでした。わたしの支配的な思いは、『わたしは主のはしため〔召使女〕です。おことばどおり、この身に成りますように』〔ルカによる福音書1・38〕というものであり、すべてよくなり、すべてよしという完全な信頼でした。創造の命が刻一刻とわたしに流れこみ、わたしは、永遠者と結ばれ、調和し、理解を超えた平和で満たされていると感じました。わたしのこころには、障りのある体が入りこむ余地はありませんでした。わたしには時間や空間や人間の意識がなく、あるのは愛と幸福と信仰の意識だけでした。
「この状態がどれほど続いたのか、いつ眠りに落ちたのか、わかりません。でも、朝、目覚めたとき、わたしはよくなっていました」
これらは、ごくありふれた事例です[64]が、仮にもそれらの事例になにかあるとすれば、実験と検証の方法があります。この患者たちは自分の想像の産物に欺かれた犠牲者なのだとみなさんが思っていてもいなくても、いまわたしがいおうとしている要点にとって違いはありません。試してみた実験によって自分自身が癒されたと思えたことが、その人たちにとって精神療法理論の信者になるのにじゅうぶんだったのです。このような結果を得るのには、特定の気質の人でなければならないのは明らかですが(だれもが満足できるほどに癒されるわけではないのは、最初に往診を頼んだ正規の開業医によって、だれもが治してもらえるわけではないのと同じですから)、それでも、精神療法の未開で原始的な哲学をこのような実験で検証できた人たちに向かって、そういうのはよしにして、もっと科学的な治療法に頼りなさいと指示するのは、知ったかぶりの大きなお世話でしょう。これらすべてをどう考えればよいのでしょう? 科学は口出しの幅を広げすぎているのでしょうか?
[64] 今回の講義録に付録を設け、友人たちに提供していただいた事例を二件掲載しておくので、参照のこと。
セクト的な科学者の主張は、控えめにいっても未熟であるとわたしは信じます。わたしたちがこの時間中に研究してきた体験は(非常に多くのほかの種類の宗教体験も似たようなものですが)、宇宙が、いかなる教派が認めるものよりも、科学教派が認めるものさえよりも、もっと多面的なものであることを端的に示しています。わたしたちのこころが構成する、多かれ少なかれ孤立した観念体系(概念体系)と合致する検証とは、体験を措いて、結局、なんなのでしょうか? しかし、常識という名のもとに、なぜわたしたちは、たったひとつのそのような観念体系が正しいはずだと決めてかかる必要があるのでしょうか? わたしたちの体験全体から明らかな結果としてわかることですが、世界は多くの観念体系にもとづいて扱えるものであり、さまざまに異なった人たちにそのように扱われていて、その度ごとに、働きかける人が望んでいた特定の種類の利益を与えるのですが、それと同時に、別種の利益は排除されたり、繰り延べされたりします。科学は、電信や電気照明、診察、一定規模の病気の予防と治療をわたしたち全員に与えてくれます。精神療法の形になった宗教は、平安、心の安定、幸福をわたしたちの一部に与えてくれ、科学と同じようにある形態の病気を予防し、特定の部類の人たちには、もっと効果的に働きます。ここで明白なことに、科学と宗教とは、その両方とも、いずれかを実地に用いる人が世界の財宝庫を開くための鍵になります。同じく明白なことに、そのいずれも万能であったり、他方の同時使用を排除したりするものでもありません。ではなぜ、結局、世界は相互に浸透する現実の諸領域からなる複雑なものであり、数学者たちが、幾何学や解析幾何学、代数学や微積分学、あるいは四元法算法を用いて同じ数字や空間の事実を扱い、いずれの場合も正解をえるのと同じように、わたしたちは、代わる代わる異なった概念を用い、異なった態度を取りつつ、世界に迫ってはいけないのでしょうか? この意味で、宗教と科学とは、それぞれが時々刻々と世代から世代へと独自の検証を受けながら、永遠に共存するのでしょう。原始思考は、その個性を備える人格の力とともに、これまでと同様、現代の現場から科学によって追放されるものではとうていありません。相当数の教養人たちが、それを、現実との交渉を続けるための最も直接的な体験経路であると考えているのです。[65]
[65] たいていの哲学者たちが想定するように、さまざまな領域や体系が、いつかひとつの絶対概念に統合されるかどうか、もしそうなら、いかにしてその概念が達成されるのかは、将来においてのみ答えられる設問である。いまの時点で確かなのは、異なる概念の諸系列があって、それぞれが世界の真実の特定部分に対応し、それぞれがある程度まで検証され、それぞれが現実体験の特定部分を放置しているという事実である。
精神療法の事例が、すぐ使えるようにわたしの手元にありますので、これら最終的な事実にみなさんの注意を向けるために用いたい誘惑に抗しかねますが、今日のところ、このような非常に短い指摘のみで満足しなければなりません。後ほどの講義で、宗教の科学・未開思考両者に対する関係に、もっと明確な形で注意を向けることになります。
付録(注[64]を受けて)
事例一 「わたしの体験はこうです。わたしは久しい前から健康がすぐれず、病気の最初の結果のひとつが一二年まえに現れた複視〔ひとつの物体がダブって見えること〕であり、そのため、読み書きすることがほぼ完全にできなくなっていましたが、近ごろの症状では、眼を使えば、ひどい消耗の罰をたちまち受けるようになり、あらゆる類いの営みもできなくなりました。ヨーロッパとアメリカの両方で最高水準の医師たちに診ていただき、この人たちの力量なら治していただけると大いに信頼しましたが、結果は変わらないか、かえって悪かっただけでした。そして、どんどん見込みがなくなるようだと思っていたとき、わたしはあることを聞きつけ、おかげで精神療法に興味をもったので試してみることにしました。これがなにかのためになると大きな望みを抱いたのではありません――ひとつには、精神療法が開くと思われた新しい可能性に興味があったので、もうひとつには、そのとき精神療法がわたしの視野に入る唯一の可能性だったので、わたしはこのチャンスを試してみたのです。何人かのわたしの友人たちが、ボストンのXに大いに助けられ、あるいは助けられたと思っていましたので、わたしはその人を訪問しました。治療は無言のものでした。ことばはほとんど交わされず、交わされたわずかなことばはわたしのこころに確信を伝えませんでしたが、影響力を発揮していたものがあったとすれば、それは、わたしたちが一緒に静かに座っていたとき、わたしの無意識のこころへと、いわばわたしの神経系へと無言のうちに投射されるもうひとりの人の思いまたは感じでした。わたしは、精神の力がよくも悪くも身体の神経活動を形成することを知っていましたし、証明されていないにしろ、テレパシーはありうると考えていましたので、そもそものはじめからそのような作用の可能性を信じていましたが、可能性以上の信頼を置いていませんでしたし、想像力がたくましく働いているかもしれないそれに関するわたしの考えに結びつくような、強い確信も、神秘的または宗教的な信仰も持ちあわせていませんでした。
「わたしは、毎日半時間、療法家とともに静かに座っていましたが、最初はなんの効果もありませんでした。ところが、一〇日ばかりたつと、わたしは、まったく唐突また急激に、わたしのうちに満ちる新しいエネルギーの潮流、古い滞留箇所を乗り越える力の感覚、以前には何度も試みたけれども登るにはあまりにも高い、わたしの生のまわりに久しく揺るぎなくそびえる障壁を打ち破る力を意識しました。わたしは、何年もしたことがなかったのに、読んだり歩いたりしはじめたのですが、その変化は、突然で顕著、まぎれもないものでした。この潮流は、何週間か、たぶん三ないし四週間、満ちたようですが、夏が来て、何か月かあとに診療を再開することにして、わたしは帰宅しました。わたしの得た高揚はいつまでもつづくとわかり、おかげで、わたしは見込みを失うのではなく、それを得たのですが、この高揚にもかかわらず、影響力はいくぶん減じたようであり、力の真実に対するわたしの確信は、このはじめての体験から大いに強められ、それに対するわたしの信頼が、そこに働く有力な要因であったなら、健康と強さのためにさらに役立ったのでしょうが、その後、信頼が乏しく、期待に疑いが混じっていましたので、最初に試したときに実現したほど強烈で鮮明な結果は得られなくなりました。このようなできごとの証拠をすべてことばにする、結論の根拠になったものすべてを明確な陳述にするのは難しいですが、そのころ、わたしが達し、その後も抱いてきた結論を(少なくとも、わたし自身に対して)正当化する証拠がたくさんあり、あのときにわたしの身に起こった身体上の変化は、ひとつには、精神状態の変化によってもたらされた変化の結果であるとわたしは感じていました。ふたつには、あの精神状態の変化は、きわめて二次的な影響は別ですが、昂ぶった想像力の産物でも、催眠術の類いの意識的に受けとった暗示でもありませんでした。最後に、この変化は、もっと健全でもっと活気に満ちた態度の思念をわたしに認識させようと意図したもうひとりの人間が、その思いをわたしに向け、わたしがその態度を、テレパシーによって、直感意識レベルよりももっと下部にある精神階層で受けとった結果であるとわたしは信じています。わたしの場合、病気は、器官ではなく、神経のものと分類されるべきものでした。ですが、このように観察する機会を得たわたしにすれば、このような線引きは恣意的なものであるという結論になり、神経は全身の体内活動と栄養を制御しているのです。それにわたしは、中枢神経系は、局部中枢を始動したり抑止したりして、有効に働きさえすれば、どのような類いの病気にも絶大な影響をおよぼすことができると信じています。わたしの判断では、問題は単純にそれを有効に働かせる方法にあり、精神療法によって得られる結果の不確実性と著しいばらつきは、いまだにわたしたちが、作用している力について、そしてそれを有効にするのに必要な手段について無知であることを示していることに他なりません。このような結果が偶然の積み重ねでないことは、わたし自身や他の人たちを観察しましたので、確かなことです。意識的な精神、つまり想像力が多くの事例で一要因として入りこむのは、疑いのない事実ですが、他の多くの事例で、とりわけ非常に異常な事例では、それが入りこむことはとても考えられません。全体的に見て、回復作用は、発病作用のように、本来より無意識である心のレベルから現れるので、最大で最も効果的な印象は、いまだに未知だが精妙な経路によって、それがもっと健康な精神から直接受けとるものであり、隠された共感の法則によって、それはその健康な精神状態を再生産するという考えにわたしは傾いています」
事例二 「友人たちがうるさく迫りますので、(たぶん、以前にクリスチャン・サイエンス信者に頼んでうまくいかなかった経験があるものですから)信頼もせず、ほとんど期待しないまま、わが家の幼い娘は治療家の手当てを受けることになったのですが、医者が匙を投げたような疾患が治ってしまいました。そこで、わたしは興味をもち、この療法の方式と哲学を学びはじめました。しだいにこころの平安と落ちつきがわたしに訪れ、それがプラスに働いて、わたしの礼節は大きく変わりました。わたしの子どもたちや友人たちはその変わりように気づき、それについて口にしました。いらいらした感情はすべて消え去りました。顔の表情さえも目に見えて変わりました。
「わたしは頑固者で、議論となると、公私ところかまわず攻撃的になり、偏屈になっていました。わたしは、他人の意見に対して大幅に寛容になり耳を傾けるようになりました。神経過敏で怒りっぽく、当時は消化不良とカタルのせいだと思っていたのですが、週に二、三回は偏頭痛を抱えながら帰宅していました。わたしは穏やかで親切になり、身体の不具合は完全に消えてしまいました。ほとんど病的な恐れを抱きながら商談に向かうのが習いになっていました。いまのわたしは、自信と心の落ちつきをもって、だれとでも会います。
「成長の道はいつも身勝手さを消し去る方向に向かっていたといってもよいでしょう。消えるのは単に粗雑で肉欲的な姿だけというわけではなく、悲哀、嘆き、後悔、嫉妬などに表されるような微妙で一般的には認識されていない形のものも含みます。内在する神と人間の真実な内なる自我の神性に対する実用的で生きた理解の方向に向かっていたのです」
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